22:1022号室の記憶[3]
ルーファウスが自ら言葉を発してくれたのは、そういう途切れ途切れの会話が数十分続いた後のことである。
天井をぼうっと見やったルーファウスは、副社長という荷物をすっかり背中から下ろして膝を抱えているようだった。
“本当に…多分、本当に何でも無いんだ。言葉にして言えるような事じゃない。ただいつも思うんだ。私は今や神羅の副社長で、いつかは社長になる身で、多分世間からすれば羨望されるくらいの地位にある。家も、金も、肩書きも、全部持ってる。私はそれで満足できるはずなのに、何か…何かがいつも…足りないきがして”
ルーファウスの言葉は続いた。
”――――スラム街の人間を見ると、怒りが沸くんだ。私は色んなものを持っている。しかし彼らは何も手に持っていない。それなのに…彼らはそれでも笑っていられる。それが、何だか嫌なんだ”
これがどうしてなのか、私には分からない。
ルーファウスはそう言い、ツォンを振り返って「お前ならば分かるか?」と問うた。
ツォンは何とも返答ができず、その代わり、それは難しい気持ちですよ、と答える。
実際それはルーファウスの言う通り、言葉にするにはかなり難しい感情だった。それに、そういった感情は個人差があり、生来の性格にも育った環境にも左右される。
ツォンとてルーファウスと同じ人間ではない限り、確実にその感情を理解するのは無理に等しい。
“私は世間的には羨望される身なんだろうが、多分…自分こそ他人に羨望している気がするんだ。何もかも持っているのに、どうしてこんな…。そう思うと無償に悲しくなったり空しくなったりする。それがふっとやってきて…いつもこうなるんだ。これも癖で…”
そう言って、ルーファウスは膝を抱えるその格好が『癖』であることを告白する。
“馬鹿らしいだろう?”
“いえ、そんな事はないですよ”
“そうか…お前はきっと優しいんだろうな。今日も―――歳相応に見えると言われて、何だかふと…こんな気分になったんだ。なぜなのか、自分でも…よく分からない”
“ルーファウス様…”
ツォンは悲しそうな顔つきになると、ルーファウスの肩に手を乗せたままそっと俯いた。そうして、くぐもった声で言葉を吐き出す。
“すみませんでした、私の言葉が貴方を傷つけたんですね。私はなんて無粋な事を…本当にすみませんでした”
“別に良いんだ、気にしなくて”
ルーファウスはそう言うが、ツォンには遣り切れなかった。
自分の言葉がルーファウスに膝を抱えさせたなんて、そんな事を知ってはもう遣り切れない。せめて何か償いでもと思うが、償いといっても何をどう償えば良いのかも分からない。
そうしてツォンが少々落ち込むようにしていると、ルーファウスはふっとこんなことを言った。
“…雨の匂いがするな”
“え…”
”雨の匂いだ。きっとシャワーも浴びずにずっといたから、部屋に染み付いたのかもな”
今日の天候だったら、少しは救われる気がする、とルーファウスはそう言う。
もしこれが晴天の星空だったらば、あのスラム街の人々の健全な笑顔を思い出して、更にやりきれなくなっていたかもしれない、と。
その言葉を受けて、ツォンは何とも言えない気持ちになった。
そして、その説明のつかない気持ちが、無意識にツォンの手を動かす。
“…?”
緩やかに動かされた手は、ルーファウスの肩から頬に移動すると、若く綺麗な肌をすっとなぞった。
その仕草にルーファウスは驚いて目を見開いたが、いつもそうするように反射的に拒否することはしない。
ツォンの手はやがてルーファウスを引き寄せ、その体をしっかりと抱きしめる。それは強い力で、そこにはツォンの感情がこめられているような気がした。
誰かに―――抱きしめられること。
そういう行為に恵まれなかったルーファウスは、人肌に触れるというこの行為に、安心というよりどうして良いか分からなくなった。
しかしそれは嫌な感じはせず、ただ暖かく、何となく気持ちが良い。
それまでルーファウスはそのようなものを知らなかったし、知ろうという気持ちも皆無だったし、このさき生きていく上でもそんなものは必要ではないと思っていた。
何しろそう、ルーファウスには人々に羨望されうるだけのものが揃っていたから…その“誇り”さえあればそれで良いと思っていたから。
しかし―――これはどうだろうか?
この感覚は?
初めて知ったその暖かさに、ルーファウスはどうにもならない感情を覚え、目をギュッと閉じた。
最早ツォンが部下であろうが何であろうが関係ない。いや、秘密を告白した時点でそんなものは既に関係なかったが、今はただこの暖かさの中にいたいとルーファウスは思った。
“どうしたら貴方を助けられるんでしょうか…”
“…助けてなんてくれなくても良い。それに…方法なんて、分からない…”
私が教えて欲しいくらいだ、そう呟いたルーファウスに、ツォンは半開きの目でベットのシーツを見やる。
その瞬間、ツォンは確かに心からルーファウスの気持ちを和らげたいと思っていた。それは確かなことで、嘘ではなかった。
がしかし、その方法としてそれを無意識に選んだことは、狡かったかもしれない。
気付いたときにはルーファウスに口付けをし、その体を愛撫していた。
それは、とてもありえない事態だった。
けれど窓の外は景色も見えないくらいに雨が打ちつけており、此処には二人しか存在していない。
残り香のような雨の匂いはどこか寂しげで、それを緩和すべくお互い暖め合うには、その方法は多分最高に違いない。
相手が副社長であることは、その状況下ではタブーの範疇外だった。
あるのは、欲しいのは、ただ寂しさをかき消すものだけだったから。
―――――思えばそれは、傲慢な方法だったのだろう。
今ではそう思う気持ちも、存在している。
「……」
長い回想から抜け出したツォンは、いつの間にかデスクに落ちていた長い灰に、はっとした。随分と色々と考えていたせいで、灰が落ちたことにも気付かなかったらしい。
「全く…どうしようもないな」
ツォンは自分に呆れるように失笑すると、灰をそっと拭った。
その下には今日行うはずだった任務についての書類が置かれており、その書類は見事に焼け焦げている。まあ火事にならずに済んだことだけが救いといえようか、書類ならばまたパソコンからデータを出力すればよい。
「――――でも…嘘じゃなかった。…あれは、嘘じゃない」
あの日、雨の匂いの残るHOTEL VERRYの1022号室でルーファウスを抱いたこと。
あの時の気持ちは、嘘などではない。
もし誰かにこの話をしたら、それは単なる慰めのセックスだろうといわれるかもしれない。
そう言われてしまうと、ある部分ではそれを認めざるを得なくなってしまう。何故ならば証拠が無いから。証拠は目に見えない気持ちだけだから。
けれどあの日、ルーファウスを抱いてツォンは思ったのである。
この人を守らねば、と。
そして、その為に傍にいたい、と。
まるで一瞬の熱情みたいに聞こえるが、それでもそれはツォンにとって真面目な愛情と同じだった。あの瞬間、未来をかけようとすら思えたくらい、気持ちは本物だったのである。
―――――それなのに。
「…もうすぐか」
ツォンはふと腕時計に目をやると、そろそろ終了を告げる勤務時間にそう呟いた。
どこか物憂げな表情をしながら。