37:誉れ高い意義と結果至上主義
少しでも自分を大きく見せようともがいていた。
そうすることで、満足という名の安心を得ようともがいていた。
だけれど本当の自分はどうしようもなかった。
ちっぽけで、臆病で、いざという時に何も出来なくて。
明後日、とうとう例のパーティが催される。
その事実は、この世の中の幾人かの心に焦りを、或いは、興奮を生じさせていた。
明後日は何かが起こる―――――この緊張感。
目に見える何かがあるわけでもないのに切迫してくる何かが、心を捉えて仕方ない。
実際、仕事をするにもどうも集中力を欠き、挙句の果てには命令から外れた行動をしたほどである。尤も、命令から外れた行動を取ったのはその所為だけではなかったのかもしれないが。
数日前、不本意ながらツォンに協力が仰いだ。
それは、タークスの所有する膨大なネットワークを参照したいが為であり、本来ならばツォンの手など借りたくも無かったのだが、状況的にそうもできなくなってしまったが為の苦肉の策だった。
だって、ツォンにしか出来ないから。
膨大なネットワークに入るにはパスワードが必要で、そのパスワードはタークス主任にしか分からないものだったから。
本当は厭だった。ツォンなどに頭を垂れるような行為は、反吐が出るとさえ思っていた。
しかしそうせずにはおれない状況になり、レノは結局ツォンにその協力を仰いだわけだが―――――が、だ。
その結果は散々だったのである。
ツォンは結局、レノにそのネットワーク内の情報を開示することなく、それどころか先ずは自身が参照し何か分かったら連絡する、というふざけた言葉を吐いたのだ。
これがもし他の任務か何かだったらまだしも、今回ばかりはそのツォンの遣り方に腹が立ったものである。
だってそうだろう、これでは無駄に情報提供しただけという格好になってしまうのだから。
「クソったれ」
レノは任務後の本社で、独りそう毒づく。
集中力を欠き、いかにも怠慢といわんばかりの任務をそれでもこなした後、レノは本社に戻ってすぐに非常口と書かれたドアを開けた。
そうして乱暴に非常階段に腰を下ろすと、間髪いれずに煙草に火を点ける。もくもくと上がる煙に甘ったるい匂い。
苛々する。
苛々する。
もう時間が無いというのに。
何か分かったら連絡する、などと言っておいてまるで何も連絡を寄越さないツォンは、今日もいつもと同じ平常心を保って勤務していた。
いや、実際はどうか知らないし知りたくも無いが、とにかくレノの目にはそう映ったのである。
挨拶するのも厭だったが、何か分かったことがあってそれを隠しているとも限らないと思ったレノは、出勤時にわざわざ目を合わせて、どうも、などと挨拶をしたのだ。
がしかし、ツォンの反応はあまりにも希薄だった。
同じように、ああ、と挨拶を返しただけで、まるで何事も無かったふうに仕事に就いてしまったのである。
一体何を考えてるんだ。
苛々する。
ツォンと対峙した数日前のあの時間を思い出すと、その苛々は最高に高揚する。
あの場であの人が一体何を口にしたかを思い出せばそれは当然の話で、あれだけの事を口にするなら何かをして当然のはずなのに、まるでその兆候が見られないのがどうにも許せなかった。
“―――――そうだとしても、私の気持ちは譲れない”
そう言った癖に。
「何もしないで、何が譲れないだよ」
レノは、数日前ツォンが発したその言葉を思い返して目を細める。
細まった視界の中で、煙がすうっと通っていく。
そもそも、譲るも譲らないも無い。最初からツォンの気持ちなど関係ないのだ、レノにとっては。
問題なのはルーファウスの気持ちと、二人が付き合っているという事実だけなのだ。チャンスをあげはしたが、ツォンの気持ちなど毛頭興味も無いのである。
ただ、ルーファウスがツォンの事を好きだと分かっていたから、それが付属品のように付いてきただけで、ツォンの意思表明がどんなものであっても本質的にレノの今の気持ちに変化など起こらない。
ルーファウスを好きだと思っている今の自分は、本質的には間違っていないのだ。相手がどんな人間であろうと、相手を好きだという気持ちには間違いは無い。
ただ、ルーファウスがツォンという人間と寄り添っているという既成事実と、ルーファウスがツォンに対して抱いている気持ちだけが問題なのである。
現状二人は別れているも同然の状態を続けており、恐らく…というよりもむしろ完璧にと言い切れてしまうほど、自分の方がルーファウスに近い位置にいる。
それだけれど、ツォンとルーファウスは完璧に別れたわけではないし、二人がどれほどの確執を持っていようと、それは完璧な別離の証明にはならないのだ。
だからこそ、悶々とする。
どれほど本質的に正しいはずの己の気持ちを押し出してみても、それが晴れないから。
でもそれは―――――つまり。
「…って、阿呆か俺は」
レノは思わず苦笑した。
いつだったかルーファウスに告げた自分の気持ちは、単なる“告白”に過ぎなかったはずである。
それは己の気持ちを告げるというだけのシンプルなもので、結果的にルーファウスにある種の自白をさせるに至ったものの、それは別段見返りを求めるようなものではなかった。
しかしこの悶々としたものの正体は一体何だ。
今考えていた事は。
これはつまり―――――“結果を求めている”という事じゃないか。
ツォンの気持ちなどどうでも良いが、ルーファウスの気持ちはどうでも良くない。二人の間にある既成事実もどうでも良くは無い。
これはつまるところ、ルーファウスの気持ちが確実に己に向いているという証明が出来ないからこその苛立ちではないのか。
こんなに好きだと思って焦っている自分に対し、ツォンは自身の気持ちを譲れないと言いながらも何のリアクションも見せない。
もし自分とルーファウスが確実に想い合っていると言い切れたとしたら、ツォンがどれほど怠慢な態度を見せたところで何も思いはしなかっただろう。
馬鹿みたいだ、とレノは思う。
なんだかんだ言って自分は、見返りを求めている。
自身に正直にと本領発揮をして、その結果がこれだとくれば落胆もするというものだ。
尤も、本領発揮したからこそそれを欲するのかもしれない、結果という見返りを。
熱くならずクールに見せる、そんなふうに自分をコントロールし続けていたならば、結果などどうでも良かったに違いないのだ。
「なあ…怖いのか?」
ふっと、そう呟く。それは己に対しての問いかけである。
「熱くなって、我武者羅んなって…それでも何も手に入らないかもしれないって事が…なあ、怖いのか?」
なあ、と、レノはもう一度その言葉を繰り返す。
その言葉に対する回答は無くて、レノの言葉は静かに宙に浮いて、やがて空に消えていく。
タークスという組織に入ったときの事が、ふっと頭を過ぎった。確かその時、タークスは結果至上主義なのだと教えられた記憶がある。
確かにタークスは結果を出さねばならないし、それは完璧な任務を意味しているわけだが、その当時はその結果至上主義という言葉に疑念を覚えないわけでもなかった。
何故なら、世の中には結果至上主義と正反対の言葉も存在する。
やる事に意義があるだとか、結果は後から付いてくるだとか、世間ではそういう物言いもあるものだ。
そこからするに、物事は熱意だとかやる気だとかそういうものから派生する行動こそが大切なのであって、仮にそれが無駄に終わったとしてもそれはさして問題ではないという事である。
しかし、実際どうだろうか。
今の自分の心境はどうだろうか。
ルーファウスの事を好きだと思って行動することは確かに大切なことだし、それは少なくとも自分を満足させていると思う。その行動の結果、ルーファウスが平穏無事であればそれもまた満足だと思う。
しかしそのルーファウスの平穏無事が、自分の行動結果そのものから派生したものではなく、自分の行動結果の延長上でツォンが与えるものだとしたら、恐らくその満足というバロメータは狂ってしまうに違いない。
好きな人が幸せなら自分も幸せだと、いつか見た三流ドラマで好青年が言っていたのを思い出す。
液晶画面を通した先のその台詞はまるで純潔で誉れ高く、役柄に自己投影する瞬間にはその通りだと頷きたくもなったものだが、実際今の自分に当てはめてみればそんなのはまるで同意できない戯言だと思う。
尤も、世の中にはそのような人間もいるのかもしれない、まるで天使か何かのような人間が。
でも――――――どうやら自分はそう出来ないらしい。
行動理由は、確かにそうした純潔で誉れ高いものとそう相違ないのだと思う。やる事に意義があり、結果などは後からついてくるものなのだと思う。
しかし事が過ぎてしまった後の事を考えると途端にそれは一変してしまい、やはり結果が良くなければ意味が無いと思えてくる。
矛盾しているのかもしれない。
好きだという想いは自分の中だけで展開される感情だが、結果は全ての人間を取り囲む現実の中に事実として存在している。
行動理由が純潔で誉れ高い感情に起因するとしても、結果という事実は他者の介入によって如何様にも変化してしまうのだ。
感情は人の目に見えないが、事実は人の目に見える。
自分の気持ちもルーファウスの気持ちもツォンの気持ちも目には見えない、それが故に疑念が膨らんでおかしな展開になる。
しかしツォンとルーファウスが寄り添いあう関係であるという既成事実や、そこに第三者として自分が存在しているという事実は目に見えるものだろう。例えその関係が公にされていないとしても。
今でさえ変わらないその目に見える事実が、いつか変わるとでもいうのだろうか。
ふと、そう思った。
ツォンのあの明言は、明らかに事実に沿った言葉である。自分がどれほど苛立ち攻撃したところで、それは事実に沿っているのだ。
確実に目に見えるようにあの二人が別れてしまわない限りは、どんな行動をしたところで何も変わりはしないのだろう。
そう、変わりはしないのだろうと分かっているから苛立つ。
だったら―――――だったら、いっそ…。
「…最低な奴になっても、それは本領発揮で済まされんのか?」
自分を良く理解しているあの相棒は、ああ言っていたけど。
自分をコントロールして欺瞞するのと、本領発揮の末に最低限の理性を無くすのと、どちらがマトモだろうか。そう思う。
ふと、長くなった灰がポトリと落ちた。
それを合図にするかのように、レノはすっと立ち上がる。
無意識に手をやったポケットの中には携帯電話があり、それを自然と取り出したレノは、冷めた表情でそのディスプレイに目を遣った。