38:護衛任務の許可願い
目前を真っ直ぐ見据えながら、ツォンは思っていた。
眩暈がしそうなくらい懐かしい情景だ、と。
実際、日数を数えるとそれほどでもないのかもしれないが、感覚としてはそう、懐かしい情景である。
部屋の中の何かが変わったとかそんなこともないのだが、気持ちとしてはまるで久々に故郷に帰ってきたかのような、そんな感じがしていた。
仕事という名目でそこに訪れたツォンは、名目の証明といわんばかりに沢山の書類を手にしており、今しがたその一部を目前の上司に差し出したところだった。
上司はそれを無言で受け取り一通り目を通していたが、それは一応の格好というだけだというのが一目で見て取れる。要するに、実際その書類などどうでも良いのだろう。
実際、ツォンにとってもその書類などどうでも良い類のものだった。何しろその書類らは、此処に来る為に名目に過ぎなかったのだから。
「―――――で」
書類をぱさりと放った目前の上司――――ルーファウスは、そうした後に、本当はどういう用件なんだ、と静かに口にした。
見抜いていたのか、そう思ってツォンは思わず心の中で失笑する。
しかしそれを見抜いてくれたことは実際喜びに値した。
別段、自分の気持ちを汲んでくれているのだとかそういう殊勝な喜びではなく、話が早いという意味での喜びである。
書類などはただの名目だから早々に切り上げたいと思っていたし、事実ツォンは他の用件でこの場に赴いたのだから、早速本来の用件に進めるというのは何とも有難い展開なのだ。
さすがですね、そう言いながらツォンは少し笑う。
しかしその笑いは、どこかぎこちなかった。
そもそもルーファウスとこうしてプライベートな話をするということ自体、かなり久々である。
前回こうして二人きりで話したのは例のレストランで、あの時は結果的にあんなふうになってしまったから、本来なら今この瞬間というのは居心地が悪いはずなのだ。
がしかし、今日は確実な用件がある。
プライベートな話には違いないだろうが、恋愛云々の話とは別個の、確実な用件。
もとを辿れば勿論それも恋愛感情に辿り着くのだが、表面上、今はそれを口に出すことはしなくても良い。
それに―――――今やそれは…。
「私に…一体何を言いに来たんだ」
ツォンを見つめながらそう発されたルーファウスの言葉には、どこか揺らめきが感じられた。少し押せばガラガラと崩れてしまいそうな、そんな脆さを含んでいる。
それを感じ取りながらも、ツォンは冷静な声で回答した。
「実は、頼み事があって来たのです。然程難しい話ではありません」
「頼み事?」
「ええ、そうです。明後日の件です」
オブラートに包んだようなその言いかたは、それでもルーファウスに真の意味を知らせたらしい。
ルーファウスは突如として目を見開き、何か言いたそうに口を開く。
がしかし、ルーファウスが何か言う前に、ツォンが先に言葉を発した。
「なんでも、護衛任務をレノに依頼されているそうですね。門番の衛兵としてではなく、ご自身のSPとして。彼は鋭意のようですが―――――出来ればその任務を私に命令して頂けませんか」
「え…?」
「その役目、私が引き受けたいのです」
真っ直ぐな視線を向けてそう言い切ったツォンには、一切淀みが無い。まるで良い返事以外は許さないとでも言いたげなほど、それは真っすぐである。
そんな視線と言葉を受けるのは、ルーファウスにとって生易しいものではなかった。
なにしろその件については既にレノに依頼している、そもそもこうしてツォンが申し出るその意図が掴めない。
仮に―――――それが気持ち故だとして。
そうだとしても、この事態に喜んで良いのかどうかも不安である。
そう、不安なのだ。自信が無い。
「…でも」
「レノへの依頼を撤回して欲しいというわけではありません。ただ、私もその役目を負いたいというだけです。これが我侭であることは重々承知です。難でしたら―――命令ではなく許可でも良い。私の出入りを許可して頂けませんか」
お願いします、そう頭を垂れたツォンに、ルーファウスは言葉を失った。
一体何故そこまでそれに拘るのだろう。
確かにそのパーティでは不穏な動きがあるだろうと思われるし、護衛は多いに越したことは無い。感情云々の観点からでなくとも、ツォンが居てくれればそれは勿論百人力であると思う。
しかし、そもそも護衛を配置することになったのは、例の男の存在ゆえである。クラウンカフェで出会った、あの金髪の…不穏な男。
だからこそルーファウスはレノに事の次第を告げ護衛任務を言い渡したわけだが、それはその事実を知っているからこその行動である。
レノはルーファウス直々に内容を告げたのだからその事実を理解していて当然だが、この目前のツォンは違う。
ツォンは何も知らないはずなのに、何故それほどあのパーティに拘るのだろうか。
「…ツォン。お前は、もしかして―――――」
もしかして、知っているのか?
そう思ってルーファウスがその言葉を口にすると、やはりツォンは淀みなく「お願いします」と一言口にした。
しかしそれはルーファウスの疑問への回答ではない。それどころか言葉を遮られてしまったわけだから、ルーファウスとしては悶々としてしまう。
そんなルーファウスの心を知っているのかいないのか、ツォンはただひたすらその言葉だけを口にした。お願いします、と懇願の言葉を。
実際ツォンにとって、そのパーティに於ける曲者の存在というのは、ルーファウスとの共通認識でなくとも別に良かったのである。
問題はそこではなく、あくまで自分がその曲者を捕らえること。
もしその結果ルーファウスとの関係が修復できるのであればそれに越したことはないが、現状それを望むには自分は愚かすぎたのだ。
恐らく、これがほんの数日前であれば―――――そう切望したのだろう。
いや、本当は今もその願望は拭えない。
でも状況は変わってしまった。
だからこそ本来ならこんな申し出をするのは可笑しなことだったのかもしれないが、そのパーティだけはどうしても我侭を通したかったのである。
何故そこまで固執するのか、ツォン自身にも明確ではなかったが、それでも何となくそう思う。
まるでこれは、罪滅ぼしか何かのように思えてしまうけれど―――――でも。
「――――分かった」
ルーファウスは釈然としない疑問を抱えながらも、最終的には了承の言葉を口にした。ツォンがそのパーティ会場に入ることを許可するという、そういう了解である。
護衛を依頼したのはレノであるという事実は変わりなく、ツォンはあくまでも全館警備という名目。まあタークスのヘッドであることを考えれば納得のいく配置だろう。
実際タークスの精鋭を二人も個人護衛につけるわけにはいかなかったルーファウスは、そのような形でツォンの入場を許可した。
「親父が何というか分からないが、毎年無礼講の席であることには変わりない。それほど問題もないだろう。退勤後だしな」
「光栄です」
微笑んで最敬礼をしたツォンは、続けて有難うございます、などと礼を言う。
その様子は何だか妙に他人行儀な気がして仕方が無い。
尤もツォンの真意など分からないルーファウスとしては、これがプライベート寄りの話なのか仕事寄りの話なのか、それすらも曖昧だった。