43:ツォンが欲したもの [2]
その約束当日、ツォンはプレジデント神羅のところまで出向き、書類にサインをしていたものである。それは主任昇格に関連する書類で、何かとフォーマットが用意されているらしかった。
『今日からお前がタークス主任だ。頑張りたまえ』
『はい』
肩書きなど本来的な意味では何の満足にもならないものだったが、ルーファウスとの事を考えるとそれは少し意味のあることのように思え、ツォンはそれに満足を得る。
しかしその満足は、目前のプレジデント神羅の言葉によって崩壊してしまった。
『タークス主任がどれほど大変な立場なのかはお前も知っているだろう。その重責は神羅の有する秘密と正比例している。機密事項を扱うタークスのその筆頭にいること…それを忘れるな』
『はい』
『そしてその秘密とは常に明るいものではないことも…な』
『はい』
そこまで会話が進んだとき、プレジデント神羅は、それでは早速お前に重責を与えよう、と切り出した。
今までは書類に目を通しながらの会話だったが、そこからは手を組み、それをデスクの上にそっと置いた。そして、ツォンへ「重責」を与えたのである。
『この前の任務のことだが…そうだ、お前がこうしてタークス主任になったその契機ともいえるあの任務だが』
『はい、それが如何なさいましたか』
その任務は未だにしこりとしてツォンの心の中に残っている。あの憔悴した、悪事を働くとも思えない男のことが離れないのだ。
その任務について、プレジデント神羅はとても衝撃的な言葉を放った。
それは恐らく本当の意味でツォンに重責を与えたのである、プレジデント神羅が考える以上の重責を。そして良心の呵責を。
―――――あの男の正体が分かった。
―――――死体を回収してから、やっと分かったんだ。
―――――あの男は…
昔、取引していた男だった、とプレジデント神羅は言った。
昔、懇意にしていた男だった、とプレジデント神羅は言った。
昔、世話になった男だった、とプレジデント神羅は言った。
そして―――――、
ルーファウスの本当の父親だった、とプレジデント神羅は言った。
本当の、父親。
耳にした瞬間にはその言葉の意味がツォンには良く掴めなかったが、それでもそれは徐々に明らかになっていった。
とうとうと真実を語るプレジデント神羅の言葉はツォンの脳で咀嚼され、事実となって記憶され、そして耳からまたすり抜けていく。
そして脳に残ったのは、暗殺したのは自分だという事実と、あの男がルーファウスの父親だという事実だけになった。
つまり―――――自分はルーファウスの父親を殺したのである。
如何なる状況であろうと、あの人の肉親を殺したのだ。
しかもその肉親は、プレジデント神羅の話によればルーファウスの唯一の肉親だったのである。この世にたった一つだけしか存在しなかった血の繋がりを、自分は……絶ってしまったのだ。
―――――音信不通になって何をしているのかと思っていたが…。
―――――事業が失敗していたらしくてな。
―――――結局おかしな道に嵌ったようだ。
―――――45歳の身空で奴は逝った。
―――――言ってくれれば良かったものを…自業自得だ。
あれはルーファウスの父親だったが、しかしツォンが暗殺した際には悪事を働く男に違いなかった。だからお前のしたことに間違いは無い。ただお前にこの事実だけは告げておきたかった。こういう事が、タークス主任に課せられた重責だからな。
プレジデント神羅はそう語り、最後に、宜しく頼む、と言った。
宜しく頼む―――――その言葉はあまりにも重い枷となってツォンの足元を掴んでくる。一体何を頼むというのか…否、それはタークスのことに決まっている。
しかしその時のツォンには、それがルーファウスのことのように思えて仕方なかった。
あの憔悴した男の顔と、寂しげなルーファウスの顔が重なる。
悪事など無縁そうなあの男の顔と、歳相応に見えたあの日のルーファウスの顔が重なる。
それはどちらも、憂いを帯びていた。
それなりに生きることを知りながらも、どこかでいつもそれを否定している、そんな憂いを帯びていた。
ルーファウスの本当の父親だというあの男も、もしかするとルーファウスと同じように悲しくなったり空しくなったりしたのかもしれない。
あの憔悴しきった顔は悪事とは無縁そうだった。あの男はきっと、その悪事など本心ではなかったのではないだろうか。
本心ではなくて、ただ生きる為にその道に迷い込んで、それでも常にそれを否定して…その矛盾したものの中で憔悴してしまったのではないだろうか。ルーファウスのように膝を抱えて。
ああ―――――それなのに。
抵抗の一つも見せなかったあの場所で、自分はその人を殺した。
そのことが、ツォンに愚の幻想を抱かせる。
自分はまた過ちを犯してしまうのではないだろうか。ルーファウスの不安や空しさを拭い去りたいと思いながらも、結局同じように手にかけて殺してしまうのではないだろうか。
自分は、また――――――。
そんな妄想に取り憑かれていたツォンの目前で、プレジデントが現実的な話をし始める。
どうやらあの男の葬儀を執り行いたいと思っているらしく、出来ればその折にはルーファウスを呼べれば、という考えがあるらしい。
最初で最後のことだから、とプレジデントは言う。そして、それにあたって自分が事実をルーファウスに告げるとも言った。
プレジデントの言う事実とは、ルーファウスには本当の父親が別にいるということだったが、その時のツォンにしてみれば、自分が父親を殺したのだという事実に違いなかった。だからそれを耳にした瞬間に、ツォンの中には焦りが生じていく。
ルーファウスに知られてしまう。
自分が殺したということを。
一体どんな顔をして会えば良いというのか。
こんなことは許されるはずもないのに。
『ルーファウスには、今日言おうと思っている』
『今日…』
その日は、ルーファウスと会う約束をしていた日だった。
話したいことがあるんです、きっと良い話です、そう言ってルーファウスに約束を取り付けた日だったのである。
携帯電話には何度か着信が入っていた。
留守番電話にならぬよう設定されていたせいで、それは空しく着信の数だけを知らせてくる。たった数時間の間に十数件の着信があったが、それらは全てルーファウスからのものだった。
尤も、そんなのは見なくても分かっている。だって今日は約束をした日なのだから。
自らルーファウスに約束を取り付けておいて、一体自分は何をしているのだろうとツォンは思った。
ルーファウスを迎えにも行かず、連絡もせず、着信にも応えず、ただ一人きりで寂れた鉄塔の袂に腰を下ろしている。
誰も来ないようなミッドガルの中の僻地にはこうした鉄塔が数多く並んでおり、一人きりになりたい時には格別の場所だった。
しかし、何分沈みすぎる。あまりにも寂れていて。
―――――プレジデント神羅は、もう真実を告げただろうか…。
時刻は九時を指しており、ルーファウスは少し前に退勤したはずだから、帰宅後すぐに話を持ち出すとすれば今は正に話の最中だろう。
そうした想定をすることすらツォンには心苦しく、出来れば暫くこの身を消してしまいたいとすら思っていた。
今日、本当は嬉しい報告をするつもりだった。
自分はタークスの主任に昇格したのだと、だから今までよりもっと貴方を守る機会が増えるのだと、自分は貴方に相応しい人間になるのだと、そう告白するつもりだった。
貴方の不安は私が解消するのだから、安心して傍にいて欲しいと、そう言うつもりだった。
でも。
その肩書きを手に入れる為に、自分は一体何をした?
―――――殺したではないか、大切な人の唯一の繋がりを。
そんな自分が果たしてルーファウスに胸を張って言えるだろうか、昇進したのだと。
良かったなと言ってくれたとしても、何が良かったのか分かりもしない。さすがだなと言ってくれたとしても、何がどうさすがなのかも分からないだろう。
「私は…」
黄土色の地面を見つめながら、ツォンは呻く。廃れた背景に独りきりでいることが、ますますその身を小さくさせる。
怖い。
ルーファウスを傷つけてしまうだろう事も、嫌われてしまうだろう事も、全てが怖いと思った。
今までしこりが残ったとしても取り敢えずはこなしてきた仕事が、急に恐ろしく感じられてくる。
ルーファウスを大切に思っているのに、安心させてあげたいのに、そう思っていても自分には何もできないのではないだろうか。むしろ自分はこうして知らぬ間に傷つけていくのではないだろうか。そう思うと―――――――。
と、その時。
「!」
カーン、と鉄塔に何かが当たる音が響いた。
それはわんわんと遠くまで響き渡り、その後ゴン、と地面に当たる何かの音が響く。
一体何事かと思ってツォンが顔を上げ立ち上がると、どうやら幾つか並んだ鉄塔の一番端の部分で、誰かが倒れているようだった。
察するにそれは、鉄塔に当たった後に地面に倒れたということなのだろう。
驚いたツォンは、取り敢えずその人物の倒れている場所まで小走りに向かった。
そこに倒れていたのは若い女性で、露出した派手な格好をしていたものの衣類は薄汚れており、顔からは生気が失われている。酷い有様だ。
「お…い、おい!」
こんな気落ちしている時分に面倒ごとなど、冗談じゃない。とてもじゃないが関わりたく無い。
そう思ったが、その女性をそのまま見殺しにするわけにもいかず、深入りはするまいと思いながらも肩を揺らす。しかし女性はビクリともしない。
もしや、死んでいるのか。
嫌な予感がして仕方なくその身体を抱き起こしたツォンは、仰向けにして女性の頬をパチンパチンと手の平で叩いてみる。
「おい、しっかりしろ!おい、聞こえるか!」
そうして何度か叩くと、女性はそのうち瞼をピクリと動かし、薄く瞳を開いた。しかしその瞼から覗く瞳にはやはり生気が無く、諦めや疲労が漂っている。
良く見ると、女性の手の平にはしっかりと何かが握られていた。