STRAY PIECE(66)【ツォンルー】

*STRAY PIECE

66:受け継がれた”遊び”

  

  

 

目の前がゆらりとしている。

その中でルーファウスは、かつてあの純血種が褒めた自分の狩猟の腕について思い返していた。

さすがですね、純血種はそう言っていたか。

自分ではそんなふうには思わなかったが、もし彼の言う事が正しければ、この部屋にしまってある猟銃を取り出して目前の男を撃ち殺してしまえば良いと思った。

しかし、そうするには難しいほど視界が揺れている。

それに、この部屋に仕舞ってある猟銃は、かつて自分がこの地位に誇りを見出していた時分にプレジデントからプレゼントされた最初の品物だった。

今更こんなことに拘るのも馬鹿らしいと思うが、初めてそれを受けた時の言い難い嬉しさを、こんなふうに汚したくはないような気もする。自分が認められている、愛されている、その初めての証拠のように思えたものだったから。

あれから随分と練習をしたものだ、ルーファウスはそんな昔のことを思い返す。

そんな場合ではないと分かっているのに、心はどんどんと逆行し、現実を曖昧にさせていく。

「薬の効果は如何ですか?」

そう響く声に、ルーファウスはよろりと顔を上げた。

そこにいたのは、数十分前にこの部屋へやってきた精悍な顔立ちの男―――――そう、今日あの純血種に紹介された、彼の家のお抱えドクターだとかいう医者である。

何故彼が?

疑問だった。

ずっとあの金髪の若い男が敵だと思ってきたのに、実際にルーファウスの元へとやってきて奇妙な薬を打ち込んだのはその男である。

今日に至るまで会ったこともないし、紹介された時分にはこの男ならあの癖も治せるだろうかとさえ思っていたほどなのに、どうしてこんな展開になっているのだろうか。分からない。

しかしこの数十分の間に取り敢えず理解したことは、マリアとこの男が兄妹だという事実だった。

「これは希少価値の薬で、僕が難関手術を成功に導くことが出来たのもひとえにこの薬のおかげなのです。尤も、この薬だけでは意味を持ちません。単体使用をしますと、この通り麻薬と酷似しておりますので」

柔らかく笑ったその男は、おかげで、と続けてマリアの方を見遣った。

マリアは部屋の隅で後ろ手に縛られながら放置されており、部屋の中央で声を響かせる兄を恐ろしげに見詰めている。

「彼女もすっかりこの薬の虜です。そうだろう、ミフィリア?――――ああ、済まないね。君はこの名前を捨てたのだったかな。今や君は男に媚を売ることでは絶品を誇る女性なのだってね、“マリア”?」

「……」

話は弟から聞いているよ、そう言ってにこりと笑う兄は、マリアにとってあまりにも恐怖だった。

エリートが板についたこの兄の心中にあるのは、優しさなどではない。かつて幼い頃に憧れた兄とはこんなものだったろうか、そう思う。

今、このエリートの兄の中にあるのは、彼の価値観に於いての低俗を軽蔑視する驕り高ぶった悪魔の心だった。

「君はお義母さんに似て、雌の武器でしか世の中を渡れない哀れな存在だ。だから僕は、これでも君には目をかけてあげたんだよ。麻痺してしまえば、哀れな自分を直視しなくて済むからね。それに僕にとっても―――――恥ずかしく目障りな繋がりが減るし、ね」

信じられないような軽蔑の言葉をかけるその男に、ルーファウスはギリと強い眼差しを向ける。

マリアの肩を持つわけでは決して無かったが、それにしてもそれらの言葉は許せない。

エリートだからといって、それが何だというのだ。

この冷酷で非道な言い口、そしてこれまで行ってきただろう行動の一体どこに、この男を称えるほどのものがあるというのか。

今までルーファウスが散々悩んできた誇りやプライドというものを、この男は武器として使い、誰かを貶めているのである。

許せない、許せない、許せない。

「――――すみません、副社長。このような低俗な会話をお耳に入れてしまったこと、深くお詫び致します。早速本題に移りたいのですが、僕は今日、貴方と交渉する為に参りました」

「交渉…?麻薬と同等の薬を打っておいて、どこが交渉だ…?」

嫌味を込めてそう言うと、男はふふと笑った。それもそうですね、と言いながら。

「しかし万が一ということも御座います。貴方は神羅の御曹司でありながらも、その体にはあの無粋な男の血を流しているわけですし。交渉決裂―――と言うのはご勘弁願いたかったものですから」

「無粋な…男?」

その言葉に反応したルーファウスは、まさかと思いながら男の顔を直視する。

薬のせいでいまいちピントが合わないが、それでも男が可笑しそうに笑っているのだけは確認できた。

男は言う。

貴方の本当の父親のことですよ、と。

―――――――本当の、父親…。

自分を“捨てた”、本当の親。

「僕がなぜ貴方のお父上の事を存じ上げているか、恐らく貴方は今酷く不審でいらっしゃるでしょう。尤も貴方はご自身の過去すら知らないのでしょうから仕方ありません。但し僕は、貴方の本当の父親と貴方の過去を知っています」

「な…何でお前が…?」

クラウンカフェで脅迫を受けたとき、確かに引き合いに出された事柄はそれだった。それがバレてしまっては体裁も保てないだろうと、そうあの金髪は言ったのである。

しかし何故それを知っているのか、それが分からない。

あの金髪は恐らくこの兄なる人物からそれを聞き知ったのだろう。この状況を考えると金髪の方はただの手駒であるように思える。

つまり本来その事実を手中に握っていたのは、この目前の男の方であるに違いない。

ルーファウスのその疑問を受け取った男は、チラとマリアの方を見遣り、そのマリアの表情が驚きに歪んでいるのを蔑視しながらも、すっとルーファウスへと視線を戻した。

「僕は、父の意思を継いで医者となりました。父は素晴らしい方ですが少し遊びが過ぎるところがありまして、僕自身も如実にその血を受け継いでしまったのですね。ですから、医者という生業だけでなく“遊びも”受け継ぎました」

「“遊びも”…?」

ええ、そうです、と頷いた男は、タキシードの胸ポケットから綺麗に折り畳まれた紙切れを取り出すと、それをぴっちりと開いてルーファウスの眼前へと差し出す。

その紙には、誓約書と書かれていた。

「二十年程前、父はこの希少価値の薬の研究の為という名目で医学会の名を語って融資を募りました。研究が成功した暁には好条件の配当をすると約束し、当時青年実業家であった人々は大きなギャンブルに出たのです。貴方のお父上も例に違わず、誓約書にサインをして下さいました。医学会の名前は絶大で、誰も疑いはしなかったのでしょう。父は医学会から酷く信頼されていましたから、それは非常に上手くいったのですよ。但し、父の本当の目的はそんなものではなかったですし、医学会は父がそのようなことをしているとは全く知らなかったのですが」

だから遊びなんです、と男は笑う。

疑いようもないただの詐欺行為を、遊びだと。

「父は、受けた融資金で私的に大量の薬を買い付けたのです。大方は継続的摂取で廃人になるような薬ばかりでした。その薬を低俗な者達の間で流通させ、父は大金を手にしたのです」

「そんな…そんなの、犯罪じゃないか」

「そうですか?でもそれらの薬は法的に認可も下りていますし、父が流通させたのは麻薬ではなくあくまで“医療用の薬”です。尤も、そうですね。医療用の薬を無碍に流通させたのは不味かったでしょうが、父は抜け目がないですから―――――それを流したのは、融資元の皆様としか思われなかったようですよ?」

青年実業家達は、医師でしか扱うことが許されない薬品を違法入手し流通させたとして法的に裁かれていった。

一世一代のチャンスと考え行った融資が、ガタガタと己の身を破綻させていく。

本来ならもっと事業を大きくするための融資だったはずなのに、それは彼らを絶望の淵に立たせた。

医師会は彼の父に絶大な信頼を置いており、実業家達がどれほど自分の身の潔白を訴え「あの医師の差し金だ」と口にしても、彼の父を疑いもしなかったのである。

その汚染された事情を口にした男は、でも、と少しだけ笑った。

「彼らは身の破綻に陥って、最後には父を頼ってきましたよ。もう水に流す、だから金を貸して欲しいと。親切な父は、哀れな実業家達に与えました。金…ではなく“薬”を」

「な…っ」

なんてことを――――――。

そんなことをすれば、廃人になってしまう。

何もかもを失い、正常なら絶対に頼らない人間を頼ってしまうほど精神も弱っているというのに、そこにきて…薬なんて。

それを続ければどうなるか、そんなのは分かりきっている。

ルーファウスは愕然とし、マリアは涙をその目に溜めた。マリアにとってみれば、それは数ヶ月前までの自分の姿そのものである。

「――――父は」

男はふいにマリアを見遣ると、こう口にした。

「低俗な人間が嫌いなんだよ。生まれながらのエリートしか受け付けない、彼はそんな人なんだ。だからしつこい義母の事も疎んでいたよ。それでも利用価値が見出せれば、取り敢えずは近くに置いておくだけの優しさはあるんだね。尤も、未だに君達を籍に入れないのは賢明としか言いようがない判断だけれどね」

そして、次にはルーファウスを見遣る。

「父は実業家のような成り上がりのエリートも毛嫌いしていました。だから父はそんな大仰な遊びを仕掛けたのですよ。勘違いの偽エリート達、そして低俗な人間達、そういう人々を一掃したかったのです。―――――しかし残念ながら、貴方の本当の父親は少し違っていました」

ルーファウスの本当の父親という人物は、やはり他の実業家と同じく自身の事業を拡大しようとその融資に手を伸ばした一人だった。

そして彼も同じように法にかけられ、身の破綻という道を辿ったのである。

がしかし、彼は他の実業家達とは違い命乞いなどは一切しなかった。ただ、自然と自分の崩壊を待っていたのである。

どんなに自分が起こした悪事ではないとはいっても、世間的にそう見られてしまうだけの条件が揃っている以上はどうしようもない。だから、いつか自然と死はやってくるだろうと。

そんな最期を遂げた彼は、恐らく実に賢明な人間だったのだろう。

彼は事業拡大をしようとしていたその時期に、ルーファウスをプレジデント神羅に預けていたのである。

事業拡大の為に融資をする、そうなった時に彼は悪い結果をも想定していたのかもしれない。

とにかく彼の手を離れていたおかげで、ルーファウスは愛情を受けられなかった代わりにその身の安全を保証されたのである。

「父は、貴方の父親を煙たがっていました。低俗な偽エリートの癖に小癪な考えをすると言って」

男はルーファウスを見つめると、こう続けた。

「確かにいたはずの子供が、突然姿を消していた。それに気づいた父がその事を尋ねても、貴方の父親は頑なに口を閉ざしていたそうですよ。きっと貴方の存在を知られたくなかったのでしょう。言うなれば、親の愛情…でしょうか?」

笑い話ですよね、そう言ってふふ、と笑った男を目に映しながら、ルーファウスは絶句する。

ずっと―――――思っていたのだ。

自分は厄介払いをされたのだと。

事業拡大の為に邪魔な子供だから、神羅に引き取られたのだと。

しかし、男の語るその父親の姿はそういうふうには思えない。

まるで危険から避ける為にルーファウスを手放したかのようである。事業拡大の為というより、事業拡大に伴うリスクの為とでもいうような…。

「そのおかげで、貴方のような中途半端な偽エリートまで生まれてしまいました。僕の父にとっては許せない事態でしょう。僕は父の意思を受け継いでいますから、今後は貴方に融資して頂きたいと思っているのです」

男はそう言うと、でも勘違いしないで下さい、と続ける。

「僕も低俗な人間は大嫌いですが、今回の融資に関しては別の事が目的です。ですから貴方の身の破綻を望んでいるわけではありません。僕は、僕が栄光を手にしたこの薬の独自流通ルートを確保したいと望んでいます。ところがこの薬は希少価値ですから生産するのに非常に莫大な資金が必要となるのです。現時点での融資額では先細りも良い所ですから、是非貴方からの融資で量産したいのですよ」

「……」

だから個人資産だなどという言葉が出てきたのか、ルーファウスはそれに納得する。

命がどうのというよりも、金の工面を頼みたいというのが今回の脅迫の本来の姿だったのだ。

尤も、もしこの頼みを断ればやはり命は無いのだろう。そもそも、既に薬を一本打たれているのだ。

ルーファウスは、眼前に置かれている誓約書をじっと眺める。

この書面にサインさえすれば、事は収まってしまうのだ。

自分の本当の名前ではないはずのルーファウス神羅というその一言だけで―――――取引は成立してしまう。

「ペンが必要ですね。さあ、どうぞ」

男はルーファウスに質の良い万年質を手渡すと、逃げられないように左手を掴みこんでくる。

仕方なくたどたどしい手つきでその万年質を握ったルーファウスは、ブレる視界の中でそっと部屋の隅のマリアを見遣った。

マリアは、泣いているように見える。

視界がブレているから本当のところは分からないが、しかし彼女はきっと泣いているのだろうとルーファウスは思った。

あれだけの酷い感情を突きつけられて、一体彼女は何を思ったことだろうか。

「さあ、早くサインをして下さい。階下の喧騒が収まってしまう前に」

「……」

そう催促され、ルーファウスは書面のサイン欄にゆっくりと手を伸ばす。

がしかし、その瞬間に甲高い声が響き渡った。

  

  

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