67:軌道修正と最後の願い
「駄目――――!!やめて、サインなんかしないで!!」
ビクッ、として思わず万年筆が手から滑り落ちる。
それと同時に、ルーファウスの左手を握りこんでいた男の手がすっと離れた。それは、男がルーファウスの元から動いた証拠である。
「マリア、君は少し口を慎んだらどうかな?」
マリアに向かって歩を進めた男は、部屋の隅に蹲って逃げ場の無いマリアを追い込み、ぞっとするような表情を彼女を見下ろした。
手を縛られて動けないマリアは、抗うように後退して壁に背を押し付ける。そうする彼女の心を支配していたのは、ただひたすらの恐怖だった。
「これだから君達みたいな人間は嫌いなんだよ。君と、そしてあの弟もね。だからもっと薬をあげよう。体に染み付いて離れなくなるほど――――そして死ぬまで…ね」
「要らない…!あんな薬、もう要らない!」
首を大きく左右に振ってそう泣き叫んだマリアに、男はぐにゃりと顔を歪ませる。
「駄目だよ、マリア。飲まないと楽になれないだろう?」
「楽になんてならなかった!あんなの…苦しいだけだよ!」
「―――じゃあ、もっと苦しんでくれないと。何せ君達は目障りなんだから」
その言葉に、マリアはハッとして目を見開いた。
そして次の瞬間には鈍い痛みが体中を駆け巡り、無意識に叫び声をあげる。きゃあああ、というマリアの叫び声に、ルーファウスは咄嗟に顔を強張らせた。
「や、やめろ…!」
ガン!ガン!ガン!
ブレる視界の中で、男がマリアの体を思い切り蹴り込んでいる。その音は、マリアの叫び声と共にルーファウスの耳へと響いてくる。
「やめろ、やめてくれ!そこは…―――!!」
気づいた時には、そう叫んでいた。
だって、男が蹴りこんでいるのはマリアの腹部だったのだ。腹部が何度も何度も強い力で蹴られ、その度にマリアが絶叫する。
そこは―――――――そこには、子供が…!!
「やめろ―――――!!!」
何が何だか分からない内に隠してあった猟銃をガッと手に取ったルーファウスは、間髪入れずにその猟銃を発砲していた。
パアアアアン…!
音が響き渡り、マリアを蹴り倒していた男がすっとその動きを止める。
視界がブレていたし咄嗟の発砲だったから狙いなど定めている余裕はなくて、ルーファウスにはその弾が男に当たったのかどうか良く分からない。
しかし、数秒後にはその発砲が無意味であったことを痛感した。
「―――――随分と思い切った行動をされるのですね?」
聞こえてきたその声に、ルーファウスは息を飲んで猟銃を構える。その先には、まるで弾が掠った様子もない男が、奇妙な笑いを浮かべて立っていた。
「医者に向けて発砲、死体は隠蔽…神羅だったら簡単なシナリオですね」
一歩一歩と近づいてくる男に、ルーファウスは唇をかみ締める。
男の背後にはマリアがぐったりと倒れており、その腹部は既に酷い有様になっていた。
―――――撃つか、撃たぬべきか?
そう、男の言う通り神羅であれば何もかも隠蔽するなど簡単なことだろう。しかしそれをこの一瞬に決断するのは勇気がいることだった。
状況からすればすぐさま決断しなければならないだろうし、それほど迷うような状態ではない。自分は危機に晒されているのだからこれは立派な正当防衛にも繋がる。
「そういえば貴方の父親も、殺されたのでしたっけね」
「…っ」
心理戦を持ちかけるかのようなその言葉に、ルーファウスは心中で首を振る。
駄目だ、ここで惑わされてはいけない。父親のことを引き合いに出して、この場を切り抜けようとしていることなど分かりきっているのだから。
駄目だ、聞くな、そんな言葉は――――…!
「命乞いをしなかった貴方の父親はある意味では立派でしょう。でも最後の最後に暗殺されるなど、間抜けな話だとは思いませんか?」
駄目だ。
駄目だ。
駄目だ、聞くな。
「しかもその暗殺は、僕でも父でも、ましてや貴方の父親の側近の仕業でもなかった。噂によればプロの仕業らしいですよ。でも可笑しいですよね、暗殺のプロなんてどこにいますか?―――――神羅にしか、いないですよ?」
「…!」
ドクン、と心臓が高鳴るような衝撃。
それを受けてルーファウスは一瞬にして崩れた。
暗殺のプロ?
暗殺のプロなんて、それはつまり―――――。
ドン…!
その時。
ドアが突然のように開いて、ルーファウスは驚いて猟銃を掴む手を滑らせた。それと同時に鈍い痛みが走り、男が飛び掛ってきたことを知る。
しまった!、そう思ったときには既に遅く、猟銃は男の足に蹴られて床をグルグルと回転しながらどこかへと飛び去っていった。
これで武器はもう無い。その上羽交い絞めにされて息まで苦しい。
「くっ…!」
顔を歪めて苦しがるルーファウスの背後では、ルーファウスの首に腕を巻きつけながら締め付ける男が気味の悪い笑い声を漏らしている。
―――――これまでなのか…!
そう思いルーファウスがきつく目を瞑ると、背後からではなく正面から、落ち着きのある声音が響いてきた。
それは妙に心地良く耳に馴染む声で、こんな緊迫した状況だというのにルーファウスは思わず安堵感に似た感覚を覚えたものである。
何故だ、そう思ってゆっくりと目を開けた時、ルーファウスはやっとその感覚の理由を理解した。
と同時に、言いようの無い気持ちがこみ上げてくるのを感じた。
「―――――その人を放せ」
暗い空間に凛と響き渡るその声の主は、ルーファウスを羽交い絞めにしている男に向かって真っ直ぐと銃を向けている。
それは他でも無く―――――ツォンだった。
「これはこれは。貴方は神羅の誇る暗殺部隊の方ですか?」
「…だったら何だ。お前と話すことなど無い、早くその人を解放しろ」
「なるほど…」
男はふふと笑うと、ルーファウスに向かって、「暗殺部隊の方だそうですよ?」とそんなことを口にする。
男がそんな言葉をわざと口にした理由はルーファウスにとって最早歴然だった。何しろ今さっき男は言ったのだ、ルーファウスの父親は暗殺されたのだと。
その言葉に、ルーファウスは真正面のツォンをじっと見詰めた。
暗殺―――――まさか…ツォンが?
神羅の中で暗殺を担っているのはタークスである。
ソルジャーもそのようなことが無いとは言い切れないが、聞き知った内容からすれば軍を動かすようなものではなくタークスの仕事である可能性の方が高い。
ツォンが父親を―――――?
そんな疑問がルーファウスの中に渦巻いていく。
「残念ですが、この方を解放することはできません。僕はこの方と取引したいのですが、なかなか難航しておりまして。親御さんとも取引をしていたものですから、是非息子さんとも…と思ったのですが」
笑いながらそれを語る男は、まるでツォンを誘導しているかのようだった。
実際ツォンはその男の言葉の内に何かを見出し、ピクリ、と眉を動かしたりする。しかしそれでも銃の構えは崩さずに、冷静な声で言葉を発した。
「…何が言いたい?」
「いいえ、別に。ただ僕は、貴方がこの方の“本当の父親”をご存知なのではないかと思ったものですから」
どうでしょう、そうとまで付け加えられた言葉に、ツォンは暫し沈黙を守る。
そうする間、ツォンの真正面で羽交い絞めにされていたルーファウスは何とも言えない表情を浮かべていた。
もしかしたら父親を暗殺したのはツォンかもしれない。その可能性はある。
しかし仮にそうだとしても、その暗殺相手と自分とが親子であるというこの出生の秘密を、こんな場所で知られてしまうのは何だか惨めな気がした。
隠したかったわけではない、本当はちゃんと話したかったのである。
しかしそれを話したかったその日、ツォンはマリアの元におり、約束の時間にやってくることは無かったのだ。
だからルーファウスはツォンにその事実を告げることができないまま、これまでを過ごしてきたのである。
がしかし、そんなルーファウスの心持とは対照的に、ツォンはこんなことを考えていた。
あの日―――――ルーファウスと約束していたにも拘らず、怖くてなかなかその場に赴けなかったあの日。
ツォンは良心の呵責も相まって、事実を突きつけられるのがとても恐怖に思えていた。
プレジデントはルーファウスに話をしただろうし、それであればルーファウスは、ツォンが本当の父親に手を下したことも知っているだろうと思ってきたのである。
そんなツォンにとって、今更それを口に出されたからといって大した問題ではなかった。
ただ、この場でそのような話を蒸し返されるのは嫌だったし、このような日には特に止めて欲しいと思っていたものである。
その二人の見解のズレは、長らく二人を傷つけあってきた。
お互いに知らないお互いの胸の内は、長い時を経て、因果なことにこんな時になって真実を突きつけてくる。
しかし、これはある意味では用意された契機だったのかもしれない。
誰かの介入無しには絶対にやってこなかっただろう時間が、今ここにある。
「―――そうだとしたら、何だと言うんだ。そんな事は既にルーファウス様もご存知だ」
軌道修正の一歩を踏み出したのは、そんなツォンの一言だった。
ツォンは思ったままにそう口に出すと、
「私はこの手を汚し、結果的にこの地位を手に入れた。だから今、その地位の元にお前を殺すことも容易なんだ」
そんなふうに続ける。
その言葉に驚いたのはルーファウスだけではない、男もその言葉には不審な顔を浮かべた。何しろ彼にとっては話が違うのだから当然だろう。
勿論、ルーファウスの驚愕は男のそれとは比べ物にはならなかった。
今まで聞いたことも無いような事を口にするツォンに、一瞬にしてパニックに陥る。
どうしてツォンがそれを知っているのか、まずそれが分からない。
この男の有する情報をマリアを通して聞いたのだろうかと思ったが、先ほどまでのマリアの様子からするとそれは無いだろう。何しろ彼女も驚いていたのだから。
よもやレノに聞いたのだろうかとも思ったが、レノはツォンを敵対視していたことから、そのような重要事項は流さないはずである。
しかし、だったら何故?
そう思う。
「―――ルーファウス様、私は許されない事をしました。貴方はそれをお怒りでしょう。私は自分が許せなかった。許せず、貴方の怒りを買うのも怖くて、あの日どうしても足を向けられませんでした。ですから…あの日の事は、謝ります」
「な…あの、日って…」
俄か混乱するルーファウスの背後で、無粋な男の声が響く。
「だったら息子さんも貴方の同じ手で葬ってあげたら如何ですか?尤も、契約書を書いた後にして頂かないと困…」
「黙れ!」
一際大きく放たれた声が、男の言葉を強く遮った。
冷静な表情を向けながらも怒り心頭のツォンは、これは任務ではない!、と強い響きでもって叫ぶ。
そのツォンの一言は、ルーファウスの疑問に答えを出した。
これは任務ではない、つまりそれは、過去の暗殺が任務であったことを示している。
それに気づいたルーファウスは、納得すると共に先ほどのツォンの告白を思い返し、涙が出てしまいそうになるのを必死に押さえ込んだ。
こんな状況だというのに、こんなどうしようもない気持ちが溢れかえる。
マリアと関係を持った事実は変わらないにしても、発端たるところには、危惧したような事実は何ら存在していなかったのだ。
それを長らくずっと引きずって、どこまで遠まわりしてしまったのだろう、今ではこんなに遠いところまで来てしまったじゃないか。
「とにかくルーファウス様を放せ!さもなくば…」
「ツォン」
どうしようもない。
そんな気持ちを抱えながら、ルーファウスがすっと声を発した。
その声に反応して、ツォンが口を噤む。ルーファウスが何を言うかを待っているのだろう。
そんなツォンを真っ直ぐ捉え、ルーファウスはその唇に誰も考え付かなかったような言葉を乗せた。それは恐らくツォンを震撼させるに十分な言葉で、かの男にとっては苛立ちすら呼び起こすもので。
それは、ルーファウスの覚悟そのものだった。
「―――――私ごと、撃ち抜け」
そっと響いたその言葉に、ツォンは目を見開く。
まさか、そんなことが出来るはず無い。無理に決まっている。
そう思うのに、ルーファウスはまるでそうでなければならないとでも言うように言葉を紡いでいく。
「お前なら出来るだろう?これが最後だから…頼む」
「る…ルーファウス様…」
ツォンはそう呟きながら、いつだったか見た光景を脳裏に浮かべた。
あれは任務の日で、ルーファウスの血の繋がった父親を暗殺した時のことである。
その人は憔悴しきっており、微塵も抵抗しなかった。
まるで…そう、誰かが殺してくれるのを待っていたかのようにその人は静かで、ともすればそれは自分の死によって何かを断ち切りたいとでもいうようだった。
そんなあの人の姿が、目前のルーファウスに重なる。