06:ディスプレイに映った文字
「…あ、あそこは…嫌だ」
ふと、ルーファウスの口がそう震えた。
声というより震えといった方が正しいくらいに、それは妙な動きをしている。
ツォンはその動きに特には気を止めず、ただ少し意外そうな顔をしていた。そして、少し残念そうな顔を。
「そう…ですか。でしたら他の場所をリザーブしましょう。ああ、その前に…会計を済ませてきます」
ツォンはそう言うとすっとルーファウスの身から手を離し、敷居で仕切られた二人きりの空間を後にした。
そうして一人きりになったルーファウスは、まだ鳴り止まない慌しい心音にぎゅっと胸の辺りを掴む。
どうかしている、1022号室なんて。
ツォンがそれを口にするのは“思い出の場所”なのだから当然といえば当然だが、まさかその部屋が出てくるとは思わなかった。
思えばあの部屋はツォンの言うとおり思い出の場所で、自分にとっても大切な場所だったのである。
だけれど今その部屋でツォンと抱き合うことは、まるで自分を貶める行為のような気がして怖い。
だって…あの部屋は今やもう――――…
「…やめれば良い…そうだ、もうあんな事は…」
ルーファウスは床の一点を見つめながらそっと呟く。
まるで呼吸困難に陥ったかのように胸が苦しくて、その呟きも何だか息切れをしているふうに耳に届いたが、それを気にするほどの余裕は無い。
そうだ、レノも言っていたではないか。
俺はいつでも辞められる、と。
だから、そう、辞めてしまえば良い。
元のようにツォンと抱き合って、あの癖も直して、幸せを感じて過ごしていけば良い。それが何よりも一番だし、望んでいたことだったのだから、そうなって当然なのだ。
「そうだ…もう私は…」
ピピピピ…
その時、ふと何かの音が響いた。
はっ、として音の方向に顔を向けると、それはどうやらツォンの携帯だったらしい。まるで気付いていなかったがツォンの携帯はテーブルの上に放置されたままで、どうやらこのテーブルについたときからそのままだったようである。
今その携帯は着信を知らせるようにバイブレーションしており、奇妙なふうに一人歩きをしていた。
「……」
例え愛する人間であろうと、他者の携帯である限りは自身に関係は無い。
恋人だからといってその中身が気になるなどという女性的なことは特にないルーファウスは、その時の着信にも特別な気持ちは起こらなかった。
がしかし、いつまでも鳴り続けている携帯を止めてやろうというくらいの気概はある。何しろ携帯はバイブレーションになっており、その振動でもうすぐテーブルから落ちてしまいそうだったから。
別に見るわけでもない。
止めてあげようというだけだ。
そう思って身を乗り出してその携帯に手を伸ばしたルーファウスだったが、ふと目に入ってきたディスプレイの文字に思わずその動きを止めた。
「…!」
―――――その一瞬、呼吸が止まるかと思った。
次の瞬間には「何故?」という疑問符が頭を駆け巡り、その次の瞬間には腹の底から湧き上がるような衝動にかられる。
ディスプレイに映し出された文字、それは――――“マリア”。
「…何で…だ?」
この名前を、知っている。
そうだ、この名前はあの出来事が起こったときにも聞いた名前で、ルーファウスに大きな打撃を与えた名前でもある。
何で、何で今この名前が此処にあるのだろう。
だってツォンはさっき言ったではないか。いや、それどころか以前にも言っていたのだ、もう縁は切るのだと。
それなのに―――――。
「……」
ルーファウスは伸ばしかけた手をすっと引き戻すと、次の瞬間にはザッと立ち上がった。そうして振り切る間もなく足を踏み出す。
敷居を抜けて入口までを駆け抜けると、入口近くのレジスターで丁度会計をしていたツォンに出くわした。
ルーファウスの姿に気付いたツォンは柔らかい笑顔を見せたものだが、ルーファウスはそれを振り切るようにすっと脇をすり抜けていく。それはまるですれ違った心のように、止めることも止まることもできない。
「ルーファウス様…!?」
振り返ることなくドアーを開けて去っていってしまったルーファウスに、ツォンは慌てて声を張り上げる。本来ならば口に出して叫ぶなど許されない名前だったが、その時はそんな配慮をする余裕などなかった。
一体どうしたんだ、そう思ったツォンは、取り敢えず会計を完全に済ませると、ドアーを開けてルーファウスを追おうと足を一歩踏み出す。
がしかし、荷物があのテーブルに置きっ放しである事を思い出し、その先の一歩を思いとどまった。
「くそ…っ」
何でこんな時に!
そう思って舌打ちをしながら急いでテーブルに戻る。
とにかく荷物を持ってすぐさまルーファウスを追わなければ駄目だと思う。何故いきなりあんなふうに去ってしまったのかも分からないし、よりにもよって今日のような日にこんなことになってしまうのは悲しすぎる。
折角、あんなふうに想いを確かめ合えたのに。
もう―――――すれ違いたくはないのに。
とにかく急がなくてはと思い荷物を手にしたツォンは、そうした瞬間に既に足を速めていた。しかし、ふと視界に入ったものにふっと足を止める。
「ああ、携帯が」
そういえば此処に着いた時からテーブルに置いたままだった。
どうやら今日の食事に気を取られすっかり我を忘れていたらしい。
いつもだったらスーツのポケットに仕舞いこんでいる携帯が、素のまま晒されているなど、機密業務を主にしているツォンとしては考えがたいことである。
しかし今日という日はそんな気遣いすら出来ないほどに心が高揚していたのだ。
何しろルーファウスとの食事など三ヶ月ぶりだったし、そもそも誘った時分からこんな時間が持てるなど賭けのようなものだったから。
「全く…」
自分の行動に呆れすら感じたツォンは、取り敢えずいつものように携帯を胸ポケットに仕舞いこもうとした。
がしかし、ふと目に映った着信履歴の文字に、はたと手を止める。
「―――――…」
その瞬間、何か言い知れない嫌な予感がした。
その内容は一瞬の内に予想がついたが、それでも認めたくはない。
しかし…その予想が当たっていないとしたら、ルーファウスがあんなふうに出て行ってしまった理由はどう説明付ければ良い?
予想が当たっていれば……納得が行く。
「やめてくれ…」
ツォンは無意識にそう呟きながらも、携帯電話を恐る恐る手にした。そして、覚束ない指で着信履歴を辿る。
“着信履歴 マリア”
「――――っ!」
その文字を目にした瞬間。
ツォンはガタン、とテーブルにもたれかかった。
力の入らない手には、幸せを一瞬にして奪い去った携帯電話が握られており、それは無情にマリアの文字を刻んでいる。
着信履歴の時刻は僅か7分前。
それは丁度、ツォンが会計に席を外していた時分のことである。
「どうして…いつもこんな…」
テーブルに肘をついて額を押さえ込んだツォンの口からは、力ない言葉が漏れた。
それは、敷居で区切られたその空間にそっと沈みこんでいった。
1022号室は思い出の部屋。
HOTEL VERRY10階、1022号室――――――。
初めてその部屋に訪れた時は、雨の匂いがした。
その日は、雨が降っていたから。
そして、愛の香りがした。
あの人は、愛をくれたから。