08:届かない呟き
「大切なものは、いつも私から離れていくんだ。いつも私を置き去りにして…いくんだ」
「へえ…」
特別思い入れるでもなくルーファウスの言葉に返答をするレノは、ルーファウスを抱きしめながらも1022号室から見える夜景を眺めている。
窓の外の夜景は、“いつも通り”綺麗だった。
「それを…止める力が無くて。だからといって責めようとすれば嫌なことに直面する…だから、いつも逃げている気がする」
「なるほど。で、俺が登場ってわけ、ね」
「…ごめん」
ルーファウスはくぐもった声でそう謝罪する。
確かにレノの言うとおり、逃げたいからこそレノを此処に呼んだのだ。
それは今日に限ったことではなく、いつだってそうだった。初めてレノと1022号室に入ったその日からずっと、それは続いてきたのである。
レノはもともとそれを承知していたから、ルーファウスにとってこの1022号室は案外と楽な場所になっていた。
思い出の場所で不義の関係を続けているという事実はもちろん心苦しかったが、それでも一瞬の快楽に身を投じ、気持ちが緩和されるのは気楽に違いない。
ただ、それでも問題はあった。
それはとても我侭で自分本位な問題だったけれど。
「レノ、お前はいつも言ってたな。“俺はいつでも辞められる”って。―――本当は少し、怖かった」
「何が?」
「こういうふうにいられなくなるかもしれない…って、事が」
馬鹿だろう?、と苦笑するルーファウスの表情は、レノの胸にすっかりと隠れていて見えはしなかった。
がしかし、レノはその表情を見透かしたかのようにこんな事を言う。いや、表情どころか気持ちそのものまで見透かしているかのように。
「そりゃ我侭だな。だって副社長にはツォンさんがいるんだし、お二人がどんな状況であろうと俺はあくまで第三者なんだし。で、何?副社長は俺まで支配しよーとしてるってわけ?」
「別に支配だなんて…」
「でも間違ってないだろ?ツォンさんと破綻しそうになったら俺のトコ来て、その上俺までどっか行かれちゃ遣り切れないって、そーいう事だろ?そりゃ要するに、いつでも優しいキープが欲しいってだけだと思うけど」
「……」
「まあ、俺はそれほど優しくないけどな」
いつも熱ばかりが篭る1022号室は、俄かしんと静まった。
肌の重なる部分が暖かく、まるで幸せであるかのように体は安心するが、それでも心は満たされない。
しんと静まる部屋の空気が、耳から入り込んで、管を伝って、心臓まで届きそうな気がする。そうして直ぐにも心臓が冷たい空気で凍ってしまうのじゃないかとすら思う。
―――――馬鹿げてると、そう思う。
今しがたレノに告白した言葉は嘘ではなく本音だったが、それらはあまりにも生々しすぎた。
レノが言ったように、我侭で自己中心的で、そんな本音が誰かに通用するわけがない。ましてや、傷つけていると分かっている相手であるレノになど、絶対に通用しないのだ。
それを理解していながらもどこかで甘えようとしている自分を、ルーファウスは恨めしく思った。
あまりにも馬鹿げているしあまりにも浅はかだし、こんな自分はどこかに消してしまいたい。そうなればどんなに良い事かと思う。
でもそれは出来ないから、馬鹿げていると分かっていてもレノの体にギュッと腕を回してしまう。それも甘えだと、分かってはいるけれど。
「…あのさ」
そうして腕を回した瞬間、ルーファウスの頭上でレノの声が響いた。
その言葉は別段何でもない声音で放たれたものだったが、タイミングがタイミングだっただけにルーファウスはビクリとして一瞬腕の力を緩める。
それと同時に、少しばかり体を引き離した。何となく、レノが怒ったのだと思ったから。
――――がしかし。
「たまには、夜景以外の景色も見せてくれよ」
レノはルーファウスの髪に触れると、そんなことを口にした。
その言葉の意味が分からなくて、ルーファウスはふとレノを見上げる。するとレノは、ルーファウスをじっと見つめ、やがて笑った。
「ホラ、俺っていつも夜に呼び出されるだろ。折角スイートルームからの絶景なのに夜景だけしか見れないってのも惜しいじゃん?」
「…?」
未だにその言葉の意味を理解していないルーファウスは、不思議そうな表情を浮かべてレノを見つめる。
まるで意味が分からない。けれど何故かその言葉には、嫌な気持ちも寂しい気持ちも感じない。
それに、その瞬間にレノが見せた笑顔は、今まで見てきたものとは少し異なり、どこか妙に優しい感じがした。
「今日は…朝までずっと一緒に居るよ」
やがて放たれたその言葉に、ルーファウスは驚いて目を見開く。
今の今までそんなことは一度も無かった。
セックスをするだけで直ぐ帰っていく、それが今までのレノだった。
甘ったるいあの匂いを残し、寂しい気持ちを振り返りもせず、ただ飄々とやってきては去っていく、それはレノの“ペース”だった。
それなのに。
「レノ、どうして…」
軽蔑されているとばかり思っていたのに。
「別に。夜景以外の絶景も見てみたいし、それに…まあ何となくそんな気持ちになっただけ」
「なっただけ、って…そんな」
嬉しさと悲しさが入り混じったような表情を浮かべたルーファウスが、どうして良いか分からないふうにそう呟く。
それに対するレノの表情は実に明瞭だった。何しろその顔は、“笑って”いたから。
「そんな顔すんなって!別に良いだろ。それとも嫌?」
「そんなこと無いけど…でも」
「でも、何?どうせ今更ツォンさんに気兼ねする必要もないだろ」
レノはそんなことを言ったが、ルーファウスが言いたいのはそういうことではなかった。
ツォンに気兼ねしているとかそういうことではなく、レノがそうして配慮してくれたことが意外だったのである。そして何より、それがあまりにも優しい配慮である気がしたのだ。
こんな日に、傍にいてくれるなんて。
あんな告白の後なのに。
思わずルーファウスが黙り込んでしまうと、レノは「ああ、そうだ」と思い出したように声を上げた。そして、少し離れてしまったルーファウスの体を再度引き寄せると、その体をくるりと回転させる。
まるでベットに入ったばかりのような体勢になって、レノはゆっくりとルーファウスに口付けると、その唇を耳元へと移動させた。
そして。
「…なあ。もう一回やらせて」
「なっ…!」
「急遽発情期に突入したみたい」
「ば、馬鹿言うなっ」
真面目に話し合っていたかと思えば急に優しくなって、今度は突然不真面目なことを口にする。一体全体何なのかルーファウスには訳が分からない。
「っていうか、拒否しても襲うけど」
「ちょっ!…っん…っ!」
予告通り、突然襲いかかったレノの唇と指先。
それはあまりにも急だったが、ルーファウスは拒否しなかった。
言葉では拒否しても、体と心は拒否しない。むしろそれを歓迎するように自然と腕が動き、レノの体を雁字搦めにする。
「んっ…ん…」
無我夢中というのは、きっとこういう事を言うのだろう。
ルーファウスはその瞬間にそんなことを考えた。
必死に手を伸ばし、必死に掴み取ろうとする、そんな感じ。
思えば――――ああ、そうだ…大切なものを欲する時と、これは同じ事なんだ。
失いたくない、大切なもの。
「レノ…っ」
必死というのもおかしいのかもしれない、けれどその時は”必死に感じて”いた。無理矢理という意味ではなく、心から本気でという意味で。
レノの瞳にはそんなルーファウスがしっかりと映し出されており、その口からは聞き取れぬ程度の心が漏れ出していた。
「もう駄目だ俺…おかしくなりそう…」
しかしその言葉は、ルーファウスの耳には届かなかった。