41:代償行為の結末
「私には、兄が二人いるの。一人は母親の再婚相手の連れ子で、もう一人は再婚相手の元妻が浮気の末に産んだ子。複雑な兄妹関係なんだ」
上の兄は、再婚相手に似てエリートだった。
下の兄は、誰にも似ないどうしようもない人間だった。
憧れたのは上の兄、だけれど近かったのは下の兄。それは実に皮肉な現実だった。
「あの薬…下の兄が教えてくれたの。あの人、CLUB ROSEにも出入りしてて…何度も持ってきたわ。でもね、それは私が催促してたの。あの薬がないと耐えられなかったから」
「兄が…?」
そのマリアの言葉を耳にし、ツォンはふとあることを思い出す。
それはCLUB ROSEのマスターが言っていた、ツォン以外にマリアが親しくしているらしい男、のことである。確かマスターは、彼女にとって良くないだろうと言っていた。
その男が兄だというなら、親しげにしていたというのも頷ける話である。
「前に言ったの覚えてる?知り合いが悪さしてるって。それ、その下の兄の事なの」
マリアはそう言うと、詳細は知らないながらも自身が知りうる、その兄の今までの行いをすべてツォンに告げた。
それは組織化していて、恐らくこんなことをしているはずだということや、そもそも幼い頃から彼はそういう道に倒錯していたということを。そして、自分もその影響を受けて今日に至っているのだと。
自分より義理の父親を選んだ実の母親は、そんな下の兄を毛嫌いしていた。そもそもエリートから程遠く、出来損ないでしかないことが、母親には気に食わなかったのだろう。
そんな兄と戯れていた自分は、勿論、兄同様に見捨てられた。逆に、エリートである上の兄は溺愛されていたのだ。
エリートである義理の父を愛し続けた母親は、その純血を継ぐ上の兄をも溺愛し、そして、母親の血を継ぐ自分はやはり同じようにエリートの兄が好きだった。
「義理の父親は本当にエリートだったんだ。頭の良いお医者さんなの。上の兄はその血を継いでて、私はそれに憧れてて―――――でも絶対に手に入らなかった」
違いすぎたんだ、とマリアは泣きそうな顔で笑った。
自分とは違いすぎたから、だから無理だった。
「下の兄がね、言うんだ。お前はエリートが大好きだからって。私は否定してきたけど、本当はその通りだったんだと思う。だから…だからね、私…手に入らなかったものを…埋めようって思ってたんだ…きっと」
「……」
「ごめん…なさい」
謝っても仕方がないと分かっている。それでもマリアは謝らずにはいられなかった。
何しろこれは―――――代償行為に過ぎないのだから。
エリートが手に入れば、それを手にいれた自分にも価値があるように思えていた。価値のある自分なら、あるいは愛されるのではないかと思っていた。
そう、一番大切なあの人も―――――自分を愛してくれるのじゃないかと…そう思っていたから。
その告白は、しんと静まる部屋の中に響いていた。
ツォンと、マリアと、そしてまだ見ぬ命に、響いていた。
「―――――それは私も同じことだ」
ふとそんな声が響いて、マリアはそっとツォンを見つめる。
視線の先のツォンは今まで見たことがないくらい悲痛な表情をしており、一見それはマリアへの同情にも取れたが、実際には自身の過去への後悔を表していた。
ツォンは、マリアの視線に変わらぬ表情を送り続けている。
「お前が謝ることなど無い。むしろ私も謝るべきなんだ。私は…いや、私も…お前と同じなんだ。同じことをし続けていたんだ」
「同じ…?」
そうだ、と頷いて、ツォンはすっと視線を床に落とす。
「同じだ。本来向き合わねばならない人と向き合うことが怖くて、ほかの何かでそれを補おうとしてきた。立派な代償行為だ。その代償行為の末に…」
―――――結局、大切なものを失った。
同じだ、とツォンはそう思う。
マリアが言ったように、自分もまたエリートという肩書きを手に入れたいと望んでいた。
それを手にいれれば自分には価値が出来、価値のある自分なら一番大切なあの人は自分を愛してくれるのじゃないかとそう思っていた。
同じなのだ、本当に。
自分を大きく見せようともがいた歪みが、結局代償行為に繋がった。その代償行為が、最終的に大切なものを見失わせた。
しかし本来は、その大切なもののためにこそ自分を大きく見せようと思ったのだから、これは本末転倒なのである。
「マリア…もうすぐ私達は世間一般でいう夫婦になる。もし私がお前の言うエリートだというなら、お前は求めていたものを手に入れられたとそう解決できるか」
「…分からない。分からないけど…」
多分、違う。
違うのだろう。
ツォンは確かに有名企業に勤めるエリートかもしれないが、それであってももう既にお互いがどのような心情を抱えているかを知っている。
それを知っている上では、短絡的にエリートだの何だのと表面的な部分だけでものを見ることはできない。それが出来なければ自分の価値を上げるだのという元来幻想的な思想は一層抱けないことになってしまう。
いや、そもそもエリートだの価値だのというのは終着点への道しるべに過ぎない。
だって、終着点はあくまで一番大切な人の想いを得ることにあるのだから。
ツォンと寄り添ったところで最愛の人の愛情を受けることができるのだろうか?―――――否、それは違うのだ。
違う。
「私達は、その答えを“違う”と知っている。しかしそれでももうそれを“違う”と否定することが許されなくなってしまった。…いや、そもそも…そうだな、それを求める必要性すら無くなってしまったんだ。必要性を感じてはいけないんだ」
「…そう、だね」
「だから私は―――――」
ツォンはそこまで言うと、その先の言葉に詰まったように沈黙した。
俯いたまま、言葉が出てこない。
ただ視線の中にあるフローリングを見つめて、どうにもならない感情をどうにか処理しようと努力する。けれどその努力は、本当の想いの前にはどうにも無力だった。
自分は―――――あの人に一体どれだけのことをしてあげられたのだろうか。
いつも寂しそうな顔をしていたあの人に、一体どれだけの事を。
本当はあの寂しそうな人を抱きしめているだけでよかったのかもしれない。ただそれだけで良かったのに、ちょっとしたプライドが自分を大きく見せようともがいてしまったのだ。
それ故に自分は間違ったことをし、結果的に大切な人を傷つけた。傷を癒してあげたかったあの人に、更なる傷をつけたのだ。この自分は。
しかしそれでもまだ愚かに、自分は自分を保護したのである。
嫌われたくないと―――――そう思ったから。
「もう…」
もう、取り返しはつかない。
そう思った瞬間、視界の中のフローリングがぐにゃりと歪んだ。それはみるみるうちに霞んでゆき、やがて一粒の水の塊となる。
自分の子供を宿した女性の前でこんな馬鹿な姿を晒すのは間違っているのだろう。きっとそうに違いない。
そう思ったものの、突如として込み上げた感情をツォンは止めることができなかった。
「……」
そんなツォンに言葉をかけずにいたマリアは、黙したまま足を踏み出す。
それは罪を犯した半身である自分の遣り切れなさ故というよりは、ツォンへの気遣いだった。
やがて、その部屋には音が響く。
パタン、とドアの閉じる音が。