「ご…主人様!俺が、呼んだんですっ。その人、俺が呼んで、それでこんな事になったんです…!」
膝に拳を当て、下を向いてそう叫んだスティン。それを信じられないという目で見たルーファウスはその場を動けないでいたが、少しするとスティンの横に腰を下ろした。
「今、何と言った?お前が呼んだ?―――嘘を吐くな、そんな事があるはず無いだろう!だったら何だ、お前はセックスがしたくて誰かを呼んだとでも言うのか!?」
「そ、そうです!!」
呆気なく肯定されたその言葉に唖然としたルーファウスは、落ち着かない様子で立ち上がると、意味もなくその場を左右に歩き回り、最後にまたスティンの隣に腰を下ろす。そしてスティンの肩を手で掴むと、その顔を下から覗き込むようにしながら強く言った。
「違う、それは違うだろう。だってお前はあの時ホッとしたんじゃないのか。私がそういう事をしないと言った時、お前は…」
「な、懐かしくなったんです!DICTが!…か、身体が覚えてるんです、そういう事。だから俺、どうしてもそれが欲しくて、だから…」
「…懐かしくなった?」
その言葉を反芻し、ルーファウスは怒ったような表情を見せる。それはルーファウスにとって有り得ない言葉だったし、あってはならない言葉だった。
過去、スティンが語った言葉の数々は確実にその考えを裏切るものである。
過去の言葉からすればDICTが懐かしいなどというのは絶対に発想できない。それに、まだ浅い月日とはいえ彼と付き合ってきたルーファウスには分かるのだ、彼はそんな事を言う人間ではないという事が。
それだというのにスティンがそのような事を口にしたのは、どう考えても何か理由あってのこととしか思えない。しかしそう思ってみてもスティンが口を割らない限りは分からない。証拠が無いのだ。
「―――…一つ、良いか」
「…はい…」
「私は、お前の事を少なからず知っている。そこからすればお前は、嘘がつけない素直な人間なんだ。そういう人間が稀に嘘をつくと、それは直ぐにバレるものだ」
「あ…」
ビクビクした顔でルーファウスを見上げたスティンは、真っ直ぐな視線から目をそらすことができずに止まっている。すぐに反論しなければいけないのに、それができない状況―――分は、ルーファウスにあった。
「私はスティンのそういう所を凄いと思っていた。…でもそれは、間違いだったか?」
「ご、ご主人様…」
スティンの眼には、笑うでもないルーファウスの顔が映し出されている。
契約からすれば、ご主人様の言う事には絶対服従…だからこれは契約違反でしかない。本当であればこの時点で殺されていても仕方無いぐらいのことなのだが、スティンにはそれを言いだす勇気がなかった。
勿論、ルーファウスの言うように嘘は吐きたくないし、恐らく本来は吐けないのである。その上、あんな契約がなくともルーファウスに聞かれているならば本当の事を答えたかった。
しかし、本当の事を答えればどうなるか、それが恐すぎて仕方無い。
事の真相を知ったら、ルーファウスは一体どうなってしまうだろうか。
色々考えられるが、怒るか、悲しむか…それどころか信じてくれるかどうかも危ぶまれる。だって相手はルーファウスのあまりにも大切な人なのだし、ルーファウスにとってこの事態は許されないことなのだ。
あの男が言っていたこと…ルーファウスの事などどうでも良いというあの言葉。
それでも尚その嘘に気付かずにその人を愛しているルーファウス。
そんな相手と自分が肉体関係を持ったと知ったら?―――例えそれがあまりにも酷い強姦行為であろうと、きっとルーファウスは自分を許さないだろう。
恐い。
あまりにも恐い。
どうにかなってしまうだろう今後が、ルーファウスに嫌われてしまうだろう今後が、もう此処にはいられなくなるかもしれない今後が、とてもとても恐い。
「…う、うう…」
歯を食いしばって呻いたスティンは、自分の心の中にだけ渦巻いている真実に悔しくなった。真実自体もそうだが、今この空間はまるであの男の言う通りで、それが悔しかったのである。
あの男は言っていたのだ。
―――“お前には嘘つきになってもらおう”。
―――“お前に罪悪感をやろう”。
まるであの男の言うとおり…本当の事を言うのが恐くて、自分は嘘つきになっている。嘘を吐いている。そして、セックスをした事だけでなく嘘をついているこの状態にさえ罪悪感を持っている。
……全てあの男の、言う通り。
「ご、ご主人様…俺は…本当は…っ!」
あまりにも悔しくて、スティンの眼からは涙が零れた。どうしてあんな男の言いなりにならねばならないのかと思うと、悔しくて仕方無い。
だってあの男は嘘つきだし、ルーファウスへの愛情すら嘘だというのだ。そんな男の為にどうしてご主人様に嘘を吐かねばならないのかと思うと、本当に悔しい。
そして、あんな男がルーファウスの恋人として普通に生きていることがあまりにも悔しい。
それら全てをルーファウスに告げて、あれは嘘なんだと、そう教えたいのに―――自分の身分ではきっと、それは叶わないだろうとスティンは分かっていた。
しかしこれ以上ルーファウスに嘘をつくのは許せなくて、スティンはとうとうその嘘を破る一言を口にする。
その行為は、スティンのご主人様への気持ちそのものだった。
「俺…本当のこと、言います……もう、ダメ…これ以上、嘘はつけない…」
ぽたぽたと零れ落ちる涙をぬぐいもせずにそう言ったスティンは、やがてルーファウスの口から放たれた質問に、今度は本当の答えを返した。
―――本当の答えを。
どんな奴だったんだ、と問われれば、知っている人だと答える。どうして知っているかと問われれば、一度此処に来た事があるからと答える。私が知っている人物かと問われれば、そうだと答える。
…そうして問答が進んでいくと、段々とルーファウスの顔色は変化していった。
何だか妙におかしい、そんなふうに歪む顔。その顔が完全に怒りの形相に変わったのは、スティンがその人物の名前を口にした時だった。
「その人は―――ツォンさん、です」
その声が響いたその瞬間、その場は静まり返る。
それと同時にルーファウスの顔は怒りを表し、みるみるうちにその手が拳を作っていく。
それを緊張の中で見守っていたスティンは、やがてその拳が物凄い勢いで自分を殴ったのを知った。気付いた時には吹っ飛んでいたが、床に当たった衝撃とは違う頬の衝撃はそれを意味しているのだろうと。
しかし冷静に考える暇などその空間には皆無だった。
「ふ…ざけるな!何度嘘を吐けば気が済むんだ!?よりにもよってツォンだと!?お前は一体何を考えてるんだ!」
そう怒鳴られて、スティンは急いで態勢を立て直す。
そして、未だ涙の乾かない頬をそのままに、ルーファウスへと必死に訴えた。
「ご主人様、嘘なんて吐いてないです!本当にあの人がやったんです!あ、あの人は恐い人です!優しいのは嘘をついているからなんです!!」
「お前は何てことを言うんだ!見損なったぞ…そんなふうに人を判断するなんて!お前にツォンのことなど分かるはずがない!!」
「分かります!あ、あの人は言いましたっ。騙されていれば良いって…それに…」
絶対言ってはいけない、そう思った言葉が、勢いのままにスティンの口をつく。
「それにあの人は、ご主人様のことなんてどうでも良いって言ったんです!!」
「なっ…!」
一際大きく叫ばれたその言葉に目を見開いたルーファウスは、まるで信じられないその言葉を頭の中で反芻し、一瞬止まったようになった。
しかしすぐにもその言葉への怒りとスティンへの怒りを沸騰させると、冷徹な表情でスティンを見下ろす。それは普段のルーファウスからは考えられないものだった。
それを見てスティンは、はっ、と息を飲む。
見た事がないルーファウスの表情―――ツォンやDICTとは異なった恐怖、それが広がっていく。
「…そうか、分かったぞ。お前はそれを言って私に取り入ろうというんだな?…そして自分がのし上ろうと?…勝手な理想だな」
「ちっ…違います!そうじゃないです、ご主人様!」
「だったら何か?ツォンに取り入りたいのか?私からツォンを奪って、私が落ちぶれる姿を見てせせら笑おうとでも?」
「…違う!違います、違うんです!俺はただ本当の事を言ってるんです!!」
どうして伝わらないんだろう、どうしてこんなにも本当の事は受け入れてもらえないんだろう、そう思ったらスティンの眼からは涙がぼろぼろと流れた。
やはり本当のことなんて言うべきじゃなかった、あの男に負けたまま嘘つきになれば良かった、そんな気持ちがどっと溢れ出してくる。そうすればさっきまでの優しいルーファウスの傍にいられたのに、もうきっと戻ることはできない。
それら全てを分かっていても、こうなってしまった以上は訴え続けることしか彼にはできなかった。
微塵も耳を傾けてもらえない、本当の事を。
「ご主人様!俺はご主人様に嘘はつきたくないです!だ、だから俺、言ったんです!あの人の傍にいたらご主人様はずっと騙されるから、そんなの俺は嫌なんです!あの人は、あの人は本当はご主人様の事…!!」
「うるさい!!!」
怒鳴り声に怒鳴り声が重なる空間。その中でルーファウスは腹の底から声を出すと、今や床に座っているスティンの腕を持ち上げ、それをズルズルと引き摺った。
「ご、ご主人様!?」
今までにない扱いをされて驚いたスティンは、引き摺られる先を思い、わなわなと口を震わせる。
ルーファウスが向かっているのは玄関である、そうとなればルーファウスはきっとスティンをそのドアの向こうに追い出すに違いない。
それが現実のものとなるのには数分もかからず、スティンは呆気なくドアの向こうに放られた。
かろうじて服は着ていたものの、ルーファウスの自宅での快適な環境とDICTでの暮らししか経験の無い彼にとってこれは恐怖である。どんなに酷い仕打ちをされたDICTでも、最低限のものは保証されているし風を凌ぐ建物もあるのだから。
しかしそれよりも先に、スティンを縛っているのはあの契約だった。
「スティン、お前の讒言には呆れ果てた。そこまでツォンや私を疑うなんてな」
「ご主人様!お、俺はそうじゃ…!」
「でも。これも運命だったかもしれないな、スティン。私がDICTに行った理由を考えれば…もう今は、お前は必要など無かったんだ」
「―――え…?」
ドアの外の廊下にぺたりと座り込んだスティンは、その言葉に固まる。今はもう必要が無かった、とはどういう事だろうかと。
そんな様子のスティンに、冥土の土産とでも言わんばかりにルーファウスは冷めた視線と言葉を送った。それはルーファウスにとって本心だったが、それでも今までに出来上がった情故に表出しなかったものである。
がしかし、この時のルーファウスにはそういった判断が出来なかった。ツォンという人物が関わっているだけで、的確な判断は崩壊したのである。
「私は、お前のような人間が欲しいと思ったことは無かった。ただあの日…DICTに入ったあの日、私は気分が落ちていた。何もかもが上手くいかず、どうでも良いと思ってDICTに入ったんだ。…そこでお前と出逢った。でも、契約するつもりなんて最初は無かったんだ」
「ご…主人様…」
「でも…あの時のお前の顔をみたら、まるで自分を見ているような気がして放っておけなかった。つまり私は、自分を慰める為にお前と契約したも同然だったんだ。…でも今はそうじゃない、私はツォンに必要とされていると確信できる。だから、傷を舐めあうような事はもう必要なくなっていたんだ」
「―――」
語られるその言葉に、スティンは反応できなかった。言葉の一つも出ない。
ただ、一緒に出かけたり本をプレゼントしたりしてくれたルーファウスが思い出されて、それが悲しかった。どんなに優しいルーファウスも、本当は心の底でそう思っていたのかもしれないと思うと妙に辛かった。
「…ご、ご主人様…もう俺は、必要…ないですか?…い、要らない…ですか?」
やっとのことで声を絞り出したスティンは、震える口でそう問う。
もう幾筋も涙の跡が残っていたから、今涙が流れているかどうかも分からない。しかし目の所が妙に熱いのは、やはり泣いている証拠かも知れない。
そんなスティンの姿は、普通に見れば実に憐れだった。しかし、今はもうそれに情を見せるルーファウスは存在していない。
ルーファウスが返した言葉はたった一つだけ……命運を決める、重要な言葉だった。
「ああ――――“要らない”」
ゆっくりと響いた言葉の後に、パタンと乾いた音。
目前に出来たドアという壁に呆然としたスティンは、暫くその場でじっとしていた。あまりに一瞬で決まった命運に、どうする気力もでない。
しかし暫くするとルーファウスとの思い出が次々と蘇って、それが何だかとても暖かいもののように感じられた。それを思い出しながら、ちょっとだけ、笑う。
「ご主人様…」
確実に伝った涙が、ぽとり、とコンクリートの廊下に落ちる。
やがてそれはぽとり、ぽとり、と数を増やし、最後には嗚咽と変わった。
悲しい、悔しい、そんな気持ちが渦巻くのに、思い出されるのは暖かいことばかり―――そのギャップが更に心を締め付ける。
今しがた出された命運はあまりに過酷だったが、スティンはどうしてもルーファウスを恨む気になれない。
例え先ほどの告白通り、本当はずっと必要無いと思っていたとしても、ルーファウスは色々なことをしてくれたのである。そして、どんな理由にせよ契約をしてDICTから連れ出してくれた。
それから何よりも…本当にスティンの事を分かってくれていた。だから、嫌いになんてなれない。
もしあのツォンという人がいなかったら、ルーファウスはきっと今でも優しかったんだろう。そう思うと悔しいばかりだったけれど、それでもその人はルーファウスが心から愛する人だった。
自分ではとても叶わない、ルーファウスの愛する人。
だけれど、嘘をついているあの男が信頼され、本当のことを言う自分が信頼されないことは、やはり悔しさを生んだ。