理想郷(2)【ツォンルー】

ツォンルー

 

 

いつもなら高待遇で一人部屋を陣取るルーファウスも、この時は二人だけだからとツインの部屋で過ごしていた。

ベットが二つ並んだその部屋は、さすがにそれなりの装飾がなされていたり、意味もない置物が置かれていたりしたが、それはその夜の雰囲気からするとあまりにも陳腐な飾りに見えた。

午後に湖畔に出向いて…そこから二人は、どこかぎこちなかった。

ツォンにはルーファウスの言い分が分かりかね、それを解決しないままに過ごしたために、その後の時間は最悪だったのだ。他愛無い会話もなく、それどころかルーファウスはずっと不機嫌で。

そのお陰で春からの話について詰問されたり愚痴をこぼされることは無かったツォンだが、それは少し心苦しい感じもした。

お互いそれぞれのベッドに入り込むと、明かりも消さずに無言状態が続く。途中、電気を消しますか、とツォンが言ってみたものの、ルーファウスは無言で背を向けただけだった。

ひとまず電気を消してみたが、どうにも目が冴えて眠れない。

気になっていることがあるからだろうか。

段々と夜目がきくようになってきて、ツォンは仕方無く天井を見つめる。ルーファウスの方を見てみたが、視界に入るのは小さな背中だけだった。

カチカチカチ…

立派な柱時計の、時を刻む音だけが流れている。それはやけに大きく耳に入り込む。

もうそろそろ眠っただろうか、そう思ってツォンが、

「ルーファウス様」

そう声をかけると、まだ眠っていなかったのか、ルーファウスはゴソリ、と体勢を変えたりする。

それが何度か繰り返された後、ルーファウスは意外にもツォンのほうに顔を向けた。

そうして、久々にまともに顔を見合わせる。

しかし部屋の中は既に暗く、それはいつもと違う雰囲気だった。

「…昼のことを、まだ考えてますか」

思いもかけず目があってしまい、ツォンはそっとそう聞いてみる。

しかし、ルーファウスは無言だった。

「昼、私があんなふうに言うのは駄目だと…そんなような言葉を口にしましたね。あれはどういう意味ですか?」

そう聞いてみると、これには簡潔な答えが返った。

「…言葉のままの意味だ」

そう言ってルーファウスは、ツォンの次の言葉を待っている。しかし、答えになっていない言葉を受けどう返せば良いのかわからず、ツォンは悩んだ。

仕方なく、昼間の会話を思い起こす。確か、ルーファウスがそう叫んだその前に、自分は何かを言ったのだ。それは何だったろうか。

“もう、それは良いではないですか”

確か…そんな言葉を言った気がする。

とすると、“それ”という言葉の意味が問題になるのだろう。では”それ”が何だったかというと、確か、辞めるだとか辞めないだとかそういう話だったような気がする。

ということはつまり―――――「辞められない」というような意味の言葉を言ってはいけない、という事になるだろうか。

「では…私以外の人間だったら、あんなふうに言うことも許してくれましたか」

自分が護衛についたのは間違いだったろうか、と思いながらツォンがそれを口にすると、ルーファウスは怪訝そうな顔をして「違う」と言う。

それから、続けてこんなふうに言った。

「ツォンじゃなければ、あんな話、しなかった」

「ああ……」

そうだった、そうかもしれない。そう思ってツォンは納得をする。

ルーファウスがものを良く話すのは、ツォンだからだということをすっかり忘れていた。

しかしそれを思い出した瞬間、何となくルーファウスが怒鳴った理由がハッキリしたような気がした。

そう、今まで色んな話をしてこられた理由は、正にそれだったのだ。

何かを話したときに、時に厳しくても、しっかりと耳を傾けてくれる。

本音を言える。

それがルーファウスの中で大きな意味を持っていたから。

だから―――――そうだ、曖昧な答えなど、あってはいけなかったのだろう。

そこまできてやっと心から納得ができたツォンは、一つ息をついた。

そういう事なら理解ができる。だとしたら、あの会話の全てを修正しなくてはならないだろう。

けれど、それは少し危険なことでもある。

何しろ、本音を語ることはツォンの本心をすべて曝け出すことであり、それはプレジデント神羅の意向に反するからだ。

そう思ったとき、じゃあ、とツォンはあることを決意した。

こうして誰よりも自分を頼るルーファウスがいるから―――――だから、決心をした。

そんなにも不安で、そんなにも理解を欲して、それを受け止められるのが自分だけだというのなら。

ツォンは、ゆっくり、口を開く。

「―――――逃げましょうか」

そのツォンの言葉に、ルーファウスは目を見開いた。

「もし貴方がこのまま春を迎えたくないというなら、逃げれば良いのです。神羅という場所が嫌なら、違う場所に行けば良い。ルーファウス様、これは貴方が私に言ったことと同じですよ。貴方は“辞めたければ辞めればいい”と仰った。それと同じです、嫌なら逃げ出せば良い」

そう言いながらもツォンの心音は早まっていた。

もしルーファウスがこの言葉に頷いたら、それはそれで問題があるに違いない。けれど、ルーファウスが言った言葉の意味を考えるとそういうことになる。

もしこれが実現したら、確かに不満は解消されるだろうが、リスクも大きい。

そうしたら―――――常に危険が伴う。

その事実が心音を早くさせる。

「濁った水の中に飛び込まずに済むのです。湖畔で水面を覗き込むだけの人生もまた、選べるのですよ」

重ねてそう言うと、ルーファウスは何か言おうとして言葉が詰まったように唇を震わせた。

「逃げましょうか」

ツォンがもう一度そう言った後、やっとルーファウスの言葉が返る。

「…そうなったら、お前はどうする?お前は、私の側にいるのか?」

少し沈んだトーンの声に、ツォンはゆっくりと頷いた。

「良いですよ。貴方がそれを選ぶなら、私も共にそれを選びましょう。…貴方の為に、地位も捨てます。この名前も」

「そんな…大それた事」

ルーファウスは困ったように笑いそう返したが、ツォンは「いいえ」と真面目に首を横に振った。

「大それてなどいません。逃げ出すことはそういう事を意味するのです。新しい場所を得る代わりに、今までの環境を犠牲にしなくてはならない。しかし今の神羅は世界の権威だ」

だから――――、

「そこから抜け出すということはつまり、神羅を敵に回すということです。大切なご子息である貴方を、誰が放っておくものですか。神羅は追ってきますよ、いつまでも」

「じゃあ無理じゃないか」

「だから。名前を捨てろということなのですよ」

そう強く言うと、ルーファウスは口を結んだ。その言葉の羅列は決断を迫る脅威に思える。

しかし内容があまりにも重過ぎて、ルーファウスは言葉を返せなかった。

「ルーファウス神羅という名前を、貴方は捨てられますか」

「……」

「もう今までのような生活はできない。地位も名誉もなく、当然このような部屋にも泊まれなくなる。人を動かすのではなく、人に動かされる…そういう世界」

ツォンは淡々と語り続ける。

「辛いかもしれないですが、別人として生きればそこに神羅はありません。逃げられます。その代償が、今を捨てることなのですよ。…今なら、私と貴方しかいない。誰も神羅の人間は私達の行動を把握していない。今なら可能なのですよ」

このまま神羅に戻らず、名前を捨て、環境を捨て、別人として生きること―――――それが、今ならできる。

そうすれば、春からの出来事に不安を抱くこともないだろう。

逃げるのならば。

「ルーファウス様。名前を、捨てられますか」

確認するように告げられた言葉に、ルーファウスは何も返せないままツォンを見つめていた。

春からの自分を選ぶのか、それともツォンとの新しい世界を選ぶのか。

濁った水面下、それとも湖畔の綺麗な空気。

軽い圧力か、重い理解か。

逃げられるか―――――全てを、捨てて。

 

ルーファウスは結局、ツォンの言葉にこう答えただけだった。

“分からない”、と。

側には、落胆するようなツォンの顔があった。

 

 

 

あれから何年が過ぎたろうか。

その間、ツォンはルーファウスの側で話を聞き続けていた。それどころか、心の隙間を埋める関係にすらなっていた。

けれど、それでもツォンが永遠にそうあってくれる保障は無かった。

応えてくれはするけれど、どこか遠さを感じる。

それはきっと、あの時のあの答えが曖昧で、それがツォンの決意を台無しにしたからなのだろうとルーファウスは思っていた。

あの時―――――ツォンに求めたものを、逆に求められた時、その恐さが初めて分かった。

自分はそれだけのものをツォンに向けていて、それがツォンにあんな言葉を言わせたのである。

しかしそれでも、自分はその決断を下せなかった。

名前を捨てることは、できない。

この生活も地位も、捨てることはできない。

それが醜いことであろうとも、結局、奇麗事ともとれる理想論を貫くことはできなかったのだ。

勿論、そうできたなら素晴らしかっただろうけれど。

そうできたなら、ツォンはずっと側に、本当に側にいてくれただろうけれど。

「今の代償は何だろうな?」

ふっと漏らした言葉に、ツォンは「さあ」とだけ答える。

しかし、ツォンに答えも貰わずとも、ルーファウスは分かっていた。今この状況で生き続ける自分が、あの返答をした瞬間に代償としたものは――――――。

 

ツォンという存在だったに違いない。

 

唐突に時計を見たツォンは、

「ああ、時間です」

と告げ、身だしなみを整え始めた。

「ああ、じゃあな」

本当は一秒でも側にいたい――――。

そう思うものの、そんな言葉を言う資格は無くて、止められもせず、ルーファスは最高の笑顔を浮かべる。

しかしその笑顔も空しいだけだった。何しろそれに返る笑顔など存在していないのだから。

いかにも冷静な顔をしたツォンが、では、とキッチリした声を上げた。

それを見ながら、今ならできるのだろうか、そうルーファウスは自分に問いかける。

けれど、答えはすでに見えていた。

今、神羅の社長として存在している自分は、自分の存在を捨てることなどできない。

ツォンの為にさえ、全てを捨てることはできないのだ。

とはいえ、もう既にその選択肢すら存在していない。

けれど一番悲しいのは、それを理解していながらも笑顔を作れる自分自身だった。

 

 

「濁った水の中でも生きられるものなんだな、ツォン」

それはひどく悲しくて、呼吸が苦しいけれど。

“生き物は、そんな軟なものじゃない”

「…そうだな」

くるりと回した椅子の向こうに見えた空は、まるで綺麗な空気に纏われている世界のようで、何だか酷く悲しい気がした。

 

そこは多分、失った理想郷。

 

 

END

 

 

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