激動の夜が明けた翌日、昼過ぎ。
昼にもかかわらずカーテンもしめきりで電気もつけていないその部屋の中は、光が遮断され薄暗い。
ぱちりと目を覚ました後、ぐるりと部屋を見回し、ルードは体だけでなく心にも倦怠感を覚えた。
視界の中にあったのは、裸にシャツをぱらりと羽織っただけのレノの姿で、レノは何を隠すわけでもない姿のままぼんやりと煙草をふかしている。
自分はレノを犯したのだ。
ルードの中のハッキリとした認識はそれだった。
同意の上ならセックスと呼んでも構わないかもしれないが、しかし昨夜のは強姦と同様だったと思う。だって、レノの脳は飛んでいたのだ。
一時の誘惑的な態度は麻痺した脳が見せた快楽への本能というだけで、決して意識的な同意ではない。同意は、していない。
とはいえ、言い訳は勿論存在していた。
自分勝手な言い訳だが、いや、そもそも言い訳そのものが身勝手がなせる業なのかもしれないが、とにかくXやあのゴロツキ共にレノを渡すことだけはしたくなかったのである。
レノから直接何を聞いたわけでもないが、あのままではレノの心は彼らの元に返ってしまいそうな気がしたから。
タークスや、そして自分のことを、捨てて欲しくなかった。
―――――いや、自分が捨てられたくなかっただけかもしれない。
しかしそれらの言い訳が、レノに通用するとは思えなかった。ともすれば逆効果になり、二度とレノは返ってこないかもしれないと思ったのは、バカらしいことに今正にその時のことだった。
「……」
すいとレノの方を見ると、レノはぼんやりダルそうにしながら、新たな煙草に火をつけている。
ジュッ、とすられた火薬が、ぼんやりと晴れない心と同様に薄暗い部屋の中を一瞬だけ明るくし、そうしてまた暗闇に戻す。煙草の臭いが鼻についた。
「―――よう、相棒」
ふいにそう声が響き、レノとルードは視線を合わせる。
声はレノが発したもので、いつものような生気はあまり感じられない。いかにもダルそうで、しかし怒っているようには感じられない。ルードにとってそれは、奇妙な感覚だった。
「何でお前が此処にいんのか知らないけど、どうやら昨日は好き勝手やってくれたみたいじゃん?」
「……」
言い訳は存在していたものの、それを口に出す気持ちにはなれない。だからルードは、それを言葉にすることはなかった。
ただ、視線だけが交差しており、その中でレノが少し皮肉な笑いを見せる。あまり良い笑みではない。
「俺のカラダ、気持ち良かった?そんなに俺とセックスしたいんなら言ってくれりゃ言いのに。ヤリたいんならヤラせてやるよ」
「…そんなんじゃない」
「わざわざクスリでイっちゃってる時なんか狙わなくてもさ。あ、そっか。それともお前、無理矢理する方が好きなんだ?強引に股こじ開けて突っ込むほうが興奮すんだ?そりゃそーだよな、そっちのが―――」
「違う。俺は、そんなんじゃない」
「…へえ?違う??」
レノは詰まらなそうな薄い笑いを浮かべると、灰皿に押し付けるように煙草をねじ消して、大きなペットボトルの水にガブついた。
その間、僅かな静寂が襲い、ルードは居心地の悪い部屋の酸素を吸う。
もしレノが怒っていたなら、その方が何倍もやりやすかっただろう。しかしレノは怒っているわけではなくて、返ってどうすれば良いのか分からなくなってしまう。
しかし、正当な部分での言い分はルードも持ち合わせていた。レノも口にしていたように、クスリのことである。
「―――――何であんな詰まらないモノに手を出したんだ。クスリなんて馬鹿げてる。そんなものは卒業したんじゃないのか」
「ナニソレ、お説教??“今の俺”にとってはこんなのフツーなんだけど」
「……それは“どっちのお前だ”?」
「“Xの俺”」
レノの答えを聞いて、ルードは遠慮なく大きな溜息をついた。
Xの俺。レノは確かにそう言った。
“今”の自分は、“X”の自分なのだと、そう言ったのである。
無性に腹立たしくなったのと同時に、無性に悲しくなった。そう言いきってしまうレノの心の中には、タークスも自分も存在していないのだろうと思うと、気持ちのやり場がないような気がしたのである。
悔しかった。
年数にしてみれば僅かしか共に行動していない自分は、やはり若かりし頃に行動を共にした彼らに劣ってしまうのだと思った。
今のレノにとっての相棒は、自分じゃない。死んだという彼の方なのだろう。
相棒と言う言葉にそれほど執着を持っていたつもりなどなかったが、それが自分にとって大きな権利だったのだということを改めて痛感した。
それは、一緒にいる権利である。
一緒にいて、一番の存在であると主張できる権利である。
そんなものは当然のように思っていたのに、どうやらそうではないということを知って、心が苦しくなった。
この部屋は酸素が薄すぎる。いや、それどころかルードにとっては二酸化炭素しかない部屋のようだった。
「“Xの俺”から、“タークスのルード君”に質問。…なあ、嫉妬した?」
「…何を」
「“俺の仲間”に。“俺の相棒”に」
答える気にもなれない。
そんなのはどうせ分かっているくせに、何が楽しいのか。
酸素が足りなくて窒息死しそうだ。
「うんと頷けば満足か?―――ああ、そうだ。嫉妬した。お前の仲間にもお前の相棒にも、死ぬほどな。ラリったお前を強姦するくらいに。…これで満足か」
ルードがそう言い放つと、レノは、今度は普通に笑った。
しかしすぐにその笑みを消失させると、天井に顔を上げてぽつりとこう言い放つ。
「――――“俺の相棒だった男”は、もう死んだ」
天井に向けられた言葉は、そこに当たって、そうしてベット上のルードの体に降り注いだ。
その話題だったらルードも知っている、新入り仲間に聞いたからである。
とはいえ、それについてレノと話したのは初めてだった。何せレノがルードに渡した情報は、かつて相棒がいた、というそれだけだったのだから。
今、レノは何かを話そうとしている。二酸化炭素だらけの部屋の中で、過去に吸った空気を循環させようとしている。
それが分かって、ルードは静かにその声に耳を傾けた。黙って陽の光を待つ大地のように。
「ゴロツキの集団をXと呼び出したのは、そいつだった。俺の相棒で、最高にキレてる馬鹿。その頃の俺達は、警察もフツーの人間も何も怖くなかったし、何をやったって大丈夫だって思ってたんだ。俺達の世界は俺達で何とかするって思ってた。楽しかったし、何も問題なかったし、未来なんて無くったって怖くなんてなかった。だって俺達はノンルールで自由だったんだ。ルールに雁字搦めでヒイヒイ生きてる奴らなんかお笑い種だった。惨めで、みすぼらしくて、夢も希望もなくって毎日に追われて、腐った目しながら取り敢えず生きてます、みたいなさ。まあ、ソイツラにとっては俺らの方がよっぽど惨めでみすぼらしく映ってたんだろうけどな。それでも俺達は、フツーの人間よかずっと自由だった」
そこは天国みたいに楽しかった。
他人の目なんて気になんてならなかった。
自分たちが楽しければそれで良かったし、自分たち以外はクズだとさえ罵っていた。それくらい、自由だった。
「…でも、アイツは裏切った。仲間を裏切って、俺のことも裏切った」
「……」
「いつだったかなあ。盗んだ金で散々騒いだ夜にさ、気付いたら相棒が居なくって。探しに行ったら、アイツ、女と寝てたんだ。別にそんなの俺にとっちゃどーでも良かった。そこら辺の女捕まえてヤるのなんて俺達にはフツーだったし。でも、その日アイツが寝てた女だけはヤバかったんだ」
どこかの権力の傘下の女なのか、と問うと、レノは違う、と言う。
そして一言、仲間の女だった、とだけ言った。
それを聞いてルードは、何だ、たったそれだけのことか、と思ったものだが、レノにとってそれはそんな簡単なことではなかったのである。
良くある話だったかもしれない、しかしその良くある話は、レノにとって最大の裏切りでもあった。
「その仲間はさ、気さくで気の良い小柄の男だった。ほら、いつも笑かしてくれるよーな奴っているだろ?そーいう奴だったんだ。だけどその日だけは、小柄も笑ってなかった。むしろ泣いてたんだ。どうした?って聞いたら、相棒のヤツが無理やり女を寝取ったって…小柄にとっちゃその女は、フツーの女じゃなかったんだよ。本当に好きだったんだ。馬鹿ばっかやってる自分を捨てても良いって思うほど、マジに惚れてたんだ」
社会復帰することは難しいことだと分かっていた。
そんなことは望んでいなかったが、仮にそれを考えたら、絶対に無理だと全員が全員知っていた。それくらい世間にとって自分たちは信用のならない汚れ物だと理解していたからである。
しかしそれを知った上で、小柄男は密かに考えていたのだという。彼女と一緒になり、普通の家庭を築くこと。彼女との幸せな生活。そういうものを。
しかしそのためには、今のままでいられるはずがなかった。
一旦は捨てたはずの、そして敵に回しているはずの、世間と言う大敵を味方につけるほかなかったのである。
彼女を養うために仕事を探さねばならないが、雇ってくれるところなどないだろう。しかしそれをこなさなければ、窃盗などでその日暮らしをしている自分は彼女と一緒になることができない。
小柄男は、仲間の誰にも告げられない、裏切りとしか言い様のないその理想に、相当悩んでいたのである。
それは、そんな矢先の出来事だった。