真実の選択肢:19
しかしそんな瓶底オヤジも、暫くするとすっと床に視線を落として、ザックスと同じようにある事実を話し始めた。それは瓶底オヤジの過去であり、今迄一緒に住んでいてもザックスには語られなかった真実の記憶である。
突然そのような話をし出した瓶底オヤジにザックスは一瞬躊躇ったが、それでも口を挟まずにその一言一言に耳を傾けた。
それは、“家族”の話だった。
「ワシには一人娘がいてな、娘はある日突然家を出て行ったんだ。何も言わずに何も持たずに、連絡一つ寄越さんかった。全く酷い有様だがな」
「……」
「お前さんそっくりじゃろう?」
そう言って瓶底オヤジはチラリとザックスを見遣る。
そして、屈託無く笑った。
「ワシと妻は勿論焦ったがどんなに探しても見つからんで、その内そんな生活に慣れてきてしまったんだよ。大丈夫、きっとどこかで幸せに暮らしてる、今だって幸せなはずだ、そう思ってな。…そんな娘が、ある日ひょっこり尋ねてきたんだ」
彼の娘が尋ねてきたのは、家を飛び出して10年も経った後のことである。
10年の月日が経ちすっかり娘のいない生活に慣れていた彼は、突然現れたその女性が自分の娘であることに一瞬気付かなかった。しかし妻はそれを直ぐに察したらしく、尋ねてきた彼女を温かく受け入れたものである。
そして10年ぶりの再会は果たされたわけだが、残念ながらそれは温和な団欒というわけにはいかなかった。
10年の月日の後に娘が尋ねてきたのにもちろん理由があり、それは生活苦だった。しかし娘は、一体どんな生活をしていて、どうしてそうなったかということを一切口にはしなかった。
それをしないままに、どうにかしてくれないかという申し出をしてくるのだから、親子とはいえど拭い去れない不安が残る。資金がどうのということではなく、一体どうしてそれを言えないのか、というのが不安なのだ。
もし何らかの障害があり、それが彼女を貶めているのだとしたら、その障害が解消しない限り永遠に解決しない。
しかしそうして説得しても、娘は一向に説明しなかった。
瓶底オヤジはその当時から固い性格で、妻にとっては亭主関白で、娘にとっては厳格な父親だった。正に家長というのが板についた男といえよう。
そんな彼は、10年振りに再会した娘の申し出に良い返事は出さなかった。理由を言うならその時は考えよう、というのが彼の出した答えだったのである。
その答えに妻は反対したが、亭主関白だった彼は妻の意見を押しのけて、理由を述べないままの娘を押し帰した。此処で連絡先の一つも聞いておけばよかったのだろうが、怒りとプライドが邪魔して、そうできなかったのである。
それはいわゆる勘当と同じ状態で、以降、娘がどんなに尋ねてこようと、彼はそれを門前払いしたのだった。
そして―――――…、
月日は流れ、やがて妻は病に倒れ、そしてこの世を去った。
瓶底オヤジは、たった一人の家族さえ持たない一人身の男となった。
寂しい一人身になり、それでも厳格だった瓶底オヤジは、やがて周りの人間から「偏屈親父」と呼ばれるようになっていった。
その理由は、彼の妻の死因にある。
それは死後に判明した事実だが、実は彼女はひっそりと娘に連絡をつけていたのだ。そうして娘の生活の為に資金をやりくりしていたのだが、それは当然のこと厳格な瓶底オヤジには秘密にされていたのである。
だから瓶底オヤジは全く知らなかったのだ、まさか妻が娘と連絡を取り、その生活苦の理由すら知りえており、それに心を痛めていたなどという事実は。
厳格な瓶底オヤジに話をすれば絶対にどやされる、だから相談は出来ない。しかし娘の生活苦の理由を考えれば心が痛んで仕方無い、だから何とかして瓶底オヤジに見つからぬように事を済まさねばならない―――
周囲の誰かに相談しようと思っても、そんなことをすれば一家の恥を晒したとして陰口を叩かれるし、瓶底オヤジにもどやされると分かっている。だからそれも出来ない。
そうして誰にも相談できない悩みを抱えていた妻は、心労を募らせて病にかかった。それでも尚誰にも告げられないその状況は、最終的に彼女を死に追いやったのである。
過労があったらしい、そういう噂が流れた後は、もう止まらなかった。
“ヒソヒソ…そういえば娘さんは家出したらしいわよ…”
“まあ…どこでどうしてるんだか…ヒソヒソ…良い娘さんだったのに…”
“…ほら、あそこのご亭主って頑固って噂でしょ…それで……”
“ヒソヒソ…ああ、娘さんもそれが関係して…ねえ…”
噂は音速のように広まり、やがて人々の瓶底オヤジへの認識は、“家出をするような娘を育て、妻に心労を募らせて殺した、頑固で融通の利かない男”というものへと変わっていった。
娘が家出をしても尚、変わらぬ態度で仕事を続け、妻が死んでも尚、変わらぬ態度で仕事を続ける男。
瓶底オヤジの靴を磨く音は、キュキュと時間を問わずに響いていたが、それは返って人々に噂の輪を広げていった。
そんな噂の広まる中、それでも瓶底オヤジが何も言わずに仕事を続けたのは、ある一つの連絡を受けたからである。
それは勿論、頑固な瓶底オヤジの心中だけに仕舞われたのだから、周囲の人がそれを知る由はない。
その一つの連絡とは、正に真実だった。娘が生活苦を強いられたその理由……それがその連絡だったのである。
受けたのは、一通の手紙。
その手紙はある若夫婦からのもので、そこにはまずこう書かれていた。
貴方の孫は晴れて我々の養子として迎えられた、と。
そしてその次には、瓶底オヤジの娘が一人で産み落としたその息子がもう既に10歳ほどであり、その息子の父親は既にこの世を去っていることや、娘が瓶底オヤジに会いたがっていたことなどが書かれていた。
娘の夫にあたる男は、出逢ったときには既に病にかかっていたらしい。今になってみれば、娘が家を飛び出したときにはもう、この二人は関係を持っていたのである。
家を出たのは、その体に彼の子供を宿したと知ったから。しかし頑固な父親にそれを話してしまえば、罵声ですまないことくらい彼女は承知していたのである。
既に病の身である男との子供、そしてその後の生活、それを考えれば絶対的に許されはしないだろう、と。
だからこそ彼女は家を出て、病の夫を看病しながらも子供を産み落としたのだ。
しかし勿論、その生活は厳しいものだった。病の夫には親類がおらず、病は徐々に進行していくものだから、ともかく費用がかかる。子供は徐々に大きくなってゆくし、そんな中で夫の死を迎えれば彼女とて崩れることは歴然だった。
町は、周囲は、世界は、誰もそれに手を差し伸べてはくれなかった。
だから彼女は、最後の望みをかけて、自ら去ったはずの家に帰ってきたのである。
そういった事実がつらつらと書き綴られているその文面の中、その最後に見えた文字にはさすがの瓶底オヤジも絶句せざるを得なかった。
“これは、貴方の50回目の誕生日に出してくれと言われた手紙です”
“それが、彼女の遺言です”
――――――死んだのだ、娘は。
それがどういうものだったかは詳しく綴られていないが、子供が健康であることからも、彼女は自分の身を犠牲にしていたことが分かる。それなのに彼女は、長らく会っていない父親に、せめてもの誕生日プレゼントとしてその「事実」を送ったのだ。
許してはくれないと知っている、だけどせめて……せめて、誕生日くらいは。
お父さんから貰った命から、新しい命が繋がれました―――それが、彼女にとって最高にして最後の愛情だった。
その手紙を見てからというもの、瓶底オヤジはひたすら靴を磨き上げた。
キュキュ、キュキュ…
キュキュ、キュキュ…
朝も昼も夜も、そうして靴を磨く音…その中で瓶底オヤジが思い返していたのは、かつて小さな娘が笑いながら靴磨きの真似をしていた姿と、その隣で優しく微笑んでいた妻の姿だった。
それは、もう二度と返らない幸福という名の幻想。
もう誰も共有してくれない、瓶底オヤジだけが持つ過去だった。
「―――なあ、ザックスよ」
長い長い過去の話を終えた瓶底オヤジは、ザックスを見詰めながらそう名を呼ぶと、
「返ってこないものは、沢山あるんだ」
ゆっくりとそう言った。
瓶底オヤジの瞳には何か切ない色が混じっていて、それはザックスの眼にもはっきりと映っている。ザックスが抱える、誰も共有してくれない過去の記憶は、こうして目前の瓶底オヤジの中にも同じように眠っていたのだ。
「ワシはな、10年前にようやくそれを知ったんだ。でもそれじゃ遅い、気付いた時には取り返しがつかなくなってるんだ。もう一度と思っても、もう誰も居ないんだ。どこかで暮らしてるわけでもない、命さえもこの世にはない。それは本当に、取り返しのつかないことなんだ」
訴えかけるようにしてそう言った瓶底オヤジは、最初の話に戻ると、だから捨てるなんていう覚悟をするならもっと見極めて欲しいのだ、と繰り返す。
血の繋がりも何もないザックスに、偏屈といわれている瓶底オヤジがそこまでの言葉を吐くのは、考えてみれば酷く不思議なことである。
しかし瓶底オヤジは、現状ザックスの置かれている立場や状況を知っているからこそ、それを訴えずにはいられなかったのだ。
「クラウドはな、まだ息をしておる。生きてるんだ。それはまだ取り返しのつくという事だ」
「…瓶底オヤジ…でも」
ザックスは、瓶底オヤジの過去を聞いた後だったこともあって、どう返して良いかわからないままそう言い淀む。
何か訴えかけるようにそう言ってくれている瓶底オヤジに、否定的な言葉を返すのは躊躇われた。が、クラウドは取り返しのつくという言葉で表現できるとは思えない。だって何の解決法も分からないのだ。
しかし、そんなザックスの言葉を遮るように首を横に振った瓶底オヤジは、幾分か強い語調でこう言い放った。
「お前さんが今捨てようとしているものは、まだ取り返しのつくものだ。ザックスよ、良く考えてみて欲しいんだ。目を背けないで、じっくり見てみて欲しいんだよ」
「どういうことだよ…瓶底オヤジ?」
「道が見つかったというなら、今度はその道から拾うべきものは何なのか、その道に捨てるべきものは何なのか、それを見て欲しいんだ。ワシのようになる前に」
「それは…」
あまりに抽象的な言葉が並びすぎて、何だか難しい。
それでもザックスはじっくりとそれらを整理して考えてみた。
道は……そうだ、クラウドを守ること。それが今の道。
拾うものは、きっと瓶底オヤジやルヴィのような周囲の人間のことだろう。けれど今ザックスは、ルヴィについては“捨て”ようとしている。それは神羅が絡んでいると思うからだ。
捨てるもの―――――本当に捨てるべきもの、それは……?
「……分かったよ」
暫くした後、ザックスが口にしたのはその一言だった。
瓶底オヤジがそこまで熱心に言うのは、捨てるべきものを間違えるなということだろう。そう考えると、ザックスが今捨てようとしてるルヴィという人についてもまずは見極めなければならない。但しその作業は困難だし精神的にも辛いことは確かだった。
でも、確かめなければ。
神羅の建物から出てきたあのルヴィが本当に神羅の人間なのかどうか、それを確かめねばならない。
目を背けず、真っ直ぐ立ち向かって。
「…あのさ、瓶底オヤジ。どうして俺にそこまで言ってくれるんだ?俺なんて瓶底オヤジに酷いことばっか頼んでるのに…俺なんかに、どうして」
「それは簡単な事だ」
そんなことを言い出したザックスに、瓶底オヤジは笑って言った。
「ワシはな、自分のしてきた事に後悔はない。何しろ後悔をしたって後の祭り、誰も返ってきてくれないんだからな。…でも、思うんだ」
過去を振り返って思うこと、それはたった一つ。
「もし…娘の話をちゃんと聞いていたら…いいや、もっと前かもしれんな。もしちっぽけなプライドを捨てて話し合っていたら、もしかしたら違う空の下にいたんじゃないかと思うんだ。それを考えると、ワシのしてきたことはそれこそちっぽけだったような気がするんだ」
ちっぽけなプライドから作られたものは、結局ちっぽけな自分だった。
そう話す瓶底オヤジは、それを気付いた自分だからこそザックスにはそれを伝えておきたいのだと言う。
今や頑固で偏屈オヤジとして名高い瓶底オヤジのこと、彼の懇意にする人間などは町にはいない。勿論客はいるが、それでも彼らは瓶底オヤジの能力を買っているのであって、瓶底オヤジ自身を理解しているわけではないのだ。
そういう彼を信頼し、屈託なく笑いかけてきたザックスは、瓶底オヤジにとっては正に「家族」だった。
家族を失ってその大切さを知っているから、だからもう「家族」を失いたくはない。悲しい選択をするのを見過ごして「家族」を失うのは、もう嫌だと思うのである。
かつて娘に言えなかった数々の言葉を、もっともっと話しておけば良かったと思う数々の言葉を、今此処にいる“取り返しの付く”「家族」に託す―――瓶底オヤジのしていることとは、正にそれなのだ。
「ワシにとってお前さんは、孫だからな」
瓶底オヤジはその言葉をザックスに告げると、今まで見てきた中で最高の笑顔を見せた。
それは彼が偏屈だとか頑固だとか言われていること全てを覆すような、とても優しい笑顔だった。
それを見て、ザックスも自然と微笑む。
「…ああ。ああ、そうだよな!」
そう力強く一つ頷くと、じゃあ俺は頑張ってみるよ、とザックスは腰を上げた。
瓶底オヤジがそう言ってくれたから、何だか今すぐにも行動をしなければならないような気がしてしまう。だから腰を上げたのだが、どうやら瓶底オヤジもその行動には異議がなかったらしく、一つ頷いたりしている。
それを了承の意と取って、ザックスは早速ルヴィに真実を問いに行こうとその場を去ろうとした。
…が、しかし。