ツォンとの関係は、切れることが無かった。
それどころか、今までに増してその間隔は狭くなり、とうとう社長室での情事までに及んだ。
ツォンは俺の望む通り、スーツ姿のまま利口なやり方をし、優秀なことに最短で事を済ませるようにしていた。
やはり利口だ。きっとあの夜は少し呆けただけだろう。
あの夜の会話からすれば、ツォンとの関係は希薄になり、やがて消えるのだろうかと思っていた。しかし実際はそんなことは無く、俺は今までに増して興奮した。
しかしその興奮は、やはりあの高層ホテルで感じる興奮には劣る。何故なら勤務中はあくまで勤務中だからだ。
夜は、家庭に戻るその寸前だからこそ興奮する。けれど仕事に戻るだけなら、そこまでの欲求は起こらない。
他の誰かの存在が見えるからこそ、欲しいと思える。
この興奮など誰にも分かりはしないだろうが。
しかしその俺の興奮…ツォンの言うところの“心地いい場所”は、ツォンの忠告通りに、段々と消えかかっていたのだ。
それは俺とツォンの関係が深まるにつれ、薄くなっていく。
あんなにも欲しいと思ったツォンの背中が、久々に訪れた高層ホテルで、とうとうそう思えなくなったのは、心に空洞ができたくらいに息苦しいものだった。
相変わらず利口なやり方で早急に事を運ぶツォンだったが、それが終わってシャワーを浴びるために背を向けても、俺は何も思わなくなっていた。
俺の武器は錆付いていった。
思いっきり甘えた猫撫で声。
愛しさを丸裸にしたような瞳。
そんなものさえ、どうでも良くなっていった。
何故ならそれらは、武器だったからだ。他所に帰る人間をその場に留まらせるための、武器。
しかしそれは必要性がなくなり、だからこそ武器は錆付いた。
興奮したい、興奮し続けたい、そう思うからこそ使ってきた武器だったが、それを見ても興奮しないとなれば、意味など無かった。
そうしてツォンの背中が俺にとって興奮剤でなくなったとき、俺はやっと一つの疑問に行き当ったのである。
果たして、この関係は何なのか――――――?
興奮も無い関係など、意味がない。それでも俺とツォンは抱き合う。
そう、それはいわば――俺がリーブと寝るときに思っていた「義務」と同じようなものだった。最早ツォンとの関係は心地いいものでもなく、義務の範疇に変わっていたのである。ただ、習慣だからそうするというように。
あの背中は、いつから普通の背中に変わってしまったのだろう。
俺には自分でそれが理解できなかった。
ツォンがシャワーを浴びるといって背中を向けたとき、俺は特に何も感じず、ただ黙っていた。だからツォンも何も言わずにシャワーを浴びる。
それは俺が香水などつけていない日も同じだった。ツォンは残り香があろうとなかろうと、いつでもデザートを忘れなかったのだ。
俺にとってツォンの背中はもはや興奮剤ではなくなった。だから俺がツォンを引き留めることはない。
しかし敢えて錆びついた武器を使ってみると、ツォンはただこう答えた。
「習慣だから浴びるだけと、再三言ってきたではないですか」
それを聞いて俺は、ツォンのその習慣というのが、本当の意味での習慣だったことに初めて気付いた。
今までは妻に気を遣ってわざとそう言っていたのだと思っていたが、そうではなかったのだ。ツォンは本当にそれを習慣としていて、だからデザートを忘れないだけだった。
そういう意味も含め、俺は落胆していた。
もはや、何も無い。
興奮もなければ、心地よさもない。
シャワーを浴びたければご自由にといった感じだし、帰りたければいつでも帰れという感じだった。
ツォンがシャワーを浴びている間、俺はベットに蹲りながら、ツォンの背中のことを考える。
何故、いつの間にあの背中が魅力的でなくなったのか?
それはツォンとの情事が多くなったから慣れてしまっただけなのだろうか?
それとも別の理由が?
その答えは暫く得られなかったが、シャワーから出てきたツォンのある言葉で、見えたような気がした。
「今日は泊まりませんか」
そう言われて、俺はあからさまに嫌な顔をする。何故泊まらねばならないのだ。それよりも早く帰れば良い、お前を待つ女の元へ。
何故だと俺が聞くと、ツォンは俺の側に来てベットに腰掛けた。そのとき俺の眼にはツォンの背中が映っていたが、やはり何も感じなかった。
「以前言ったことを覚えていますか。貴方にとっていつかここが心地良くなくなると…そう言ったことを」
「ああ」
端的にそう答えると、ツォンは、今はどう思うか、ということを聞いてきた。それはつまり、ツォンの忠告に対して結果はどうだったかという意味である。
それが分かって、俺はツォンを憎憎しげに見つめた。
「…何も感じない」
一言そう言うと、ツォンは笑った。
あまりにも嫌な笑いだ。
「私の忠告通り、貴方は失くしたのですね。どうですか、こうなってみて?私はあの方を殺さずに済んでホッとしてますが」
そう言われてふとリーブのことを思い出した。
そういえば最近リーブとは寝ていない。あの甘くて回りくどいのを感じたのは相当前のことのような気がする。
暫くツォンの背中に興奮し続けていたせいか、そんなことなどすっかり頭から抜けていたが、それを数字にすると結構な期間であるような気がした。
「私達の関係は変わったのです。もうあの頃とは違う」
「何が違うものか。同じだ。ただ、あの頃より更に意味が無くなっただけだろうが」
俺が鬱陶しげにそう言うと、ツォンは横に首を振ってこう言う。
「あの方はもう、貴方を抱いたりしませんよ」
「だから何だ。それならそれで気楽だ」
「本当にそう思ってらっしゃるんですか?はっきり言わせて貰いますが、それはあの方がもう貴方を愛していないということですよ」
「……構わない」
別に俺にとっては義務も同然だった。ならば義務が一つなくなっただけの話だ。
「ではもう一つ言いますが…貴方が義務を無くしたと同時に、私も義務を無くしました」
「…なに?」
何だそれは、そう思ってツォンを見遣る。
ツォンは笑っていた。
「あの方が貴方に落胆したように、私の妻も私に落胆した。法的には今までと変わらないが、心の問題ではそうなってしまったんです。しかしあの方と違って、私の妻はそれをすんなり受け入れた。彼女は…元々落胆を持ちながら私と婚姻を結んだから」
元々というのは驚きだ。しかしその頃はまだ俺とツォンの関係は無かったのだから、また別の問題だろう。
俺はそう思ってツォンを見ていたが、ツォンの視線はそれを否定していた。まるで全て俺のせいだとでも言うように。
そしてそれは、言葉として告げられた。
「貴方がいたから、私達は関係し始めた。そして貴方がいたから、この関係は姿を変えた。そう…思いませんか、ルーファウス様?」
責め立てるふうな物言いに、俺は少なからず嫌気がさした。
この倫理に外れた関係が全てを壊したというのならそれはそうだろう。認めないわけではない。
しかしだからといって謝るつもりもない。原因など一つではないのだ。例えツォンと相手の関係が壊れようが、ツォンとて快感は味わったはずだ。それを否定などさせるものか。
「ルーファウス様。貴方はなぜ私を誘ったりしたのですか」
いつかも問われたことを、この日もツォンは口にした。
だから俺は同じ答えを口にする。
「誘いにのった方の負けだ」
「ええ、その通りです。確かに私は貴方の誘いに乗りました。でもそれは貴方にとっても過失です。…今は、私の方が勝ち、ですしね」
「…なんだと?」
意味深な笑みを漏らすツォンがいる。
何を言いたいのだ、この男は。誘われて乗ったツォンの負けに決まっているだろうに。
「義務でも愛情でもない私との夜を、貴方は楽しんでいた。しかし今の貴方は楽しくなどないでしょう。だが私は違う。私は今、楽しんでますよ」
俺は思わず耳を疑った。
何故そんなことを言える?
家庭が崩壊し、それでも仮面の関係を続け、そんなことまで言えるなど…尋常ではない。
「貴方と重ねる夜は残酷なだけだった。なぜ残酷か?それは裏切る人がいるだけでなく、嫉妬が発生するからです。あの方は貴方を抱く私に嫉妬したでしょう。私の妻も、顔の見えない相手にずっと嫉妬してきた」
「ずっと…」
「はい、ずっとです。そして私は…あの方に嫉妬した。…甘く優しく?冗談じゃない。貴方が楽しめるのは私との夜だけだった」
そう語るツォンの顔は、段々と奇妙な歪みを見せていった。笑っているような、それでも複雑な顔つき。今迄見たことがない。
それに加えてその物言いは段々とエスカレートし、俺が今迄感じたことも無いような自信を露わにした。
変だ。何かが変化しつつある。
いや、もう既に変化してしまったのか。
「あの方は愛情を持って貴方を抱くのに、私はそうしない。それは貴方がそれを望まないからです。だからあの方は報われない。あまりにも哀れでしたよ…嫉妬した相手である私にしか貴方を満足させられないという事実はね。私にしかできないなら、あの方は必要などないのです。夜を重ねるごとにそれが感じられて、あまりにも残酷だった」
何を言っているのだ、この男は。
残酷なのはその言葉の方だ。
そう思ったが、それを口に出さずにおくと、ツォンは最終的にこんなふうに言った。
「今、私と貴方は、不義の関係ではなくなった」
思わず閉口する。
何を血迷ったことを、そう思う。
しかし少し考えてみると、確かにそうなのだ。
ツォンの相手はツォンに落胆したと言った。いや、落胆を持ちながら婚姻を結んだなどと訳の分からぬことを言っていたか。そして、リーブもまた俺に落胆したという。
つまりこれは―――お互い障害がなくなったということだ。
普通ならそれは喜ばしいことだが、俺にとってはそうではない。その障害を上手く潜り抜け、倫理に反しているからこそ意味があったのだ。
だからあの背中は…。
「ああ…だから、私は」
そうだ、だからあの背中は魅力を無くした。興奮できなくなった。
何しろあの背中はもう、誰かの所有物ではなくなってしまったのだ。例え法的にまだそうであっても、気持ちの上でそれはもう、自分のものと同意だったのだ。
そんな馬鹿な話があるだろうか。
欲しいとあんなに望んだ背中。興奮し、武器まで作り出した背中。
でも、本当に手に入れたら意味など無いのに。
違う、こんなものを望んでいたわけではない。
違う。違う。違う。
「ルーファウス様…でも一番残酷なのは、貴方が私を誘ったことですよ」
そう言ってツォンは、俺の頬に手を寄せた。
それを見ながら俺は呆然としている。
「私は見ていました。婚姻する前からずっと―――貴方だけを」
口付けは、重々しかった。
まるでのしかかる義務のように、俺の中枢を支配した。
俺は無くしてしまった。興奮も、心地よい場所も、全て。
しかしこの男は逆だったのだ。俺がそれらを無くしたことによって、この男はそれらを手に入れた。
俺とツォンがその逆のバランスを持っていたからこそ、あの頃の関係はひどく魅力的だったのだ。あの背中に興奮できたのだ。
何と言う皮肉。
いや―――――残酷。
優しい手つきで、勝者は俺を抱く。
俺の望まない抱き方を、微笑みながらこなす。
その中で俺は思っていた。
思いっきり甘えた猫撫で声。
愛しさを丸裸にしたような瞳。
今や錆び切ったその武器を使える背中が、どこかに無いかと。
END
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