そうして何となく心にゆとりが出来ると、ルーファウスはスティンにもそれなりの優しさを見せたものである。
尤もスティンにとってルーファウスは既に優しい人物と位置づけされていたから、それは過剰な優しさといっても良かったかもしれない。しかしルーファウスには普通の範疇のことだった。
食事に行こうと言って共に出かける。
たまには楽しみたいだろうと言って映画に連れていく。
話し相手になってくれと言って二人で団欒する。
そういう他愛無い事はスティンにとってあまりにも大きなことで、どれもが信じられないほどの優遇でしかなかった。
だから、そういう事をしてくれるご主人様は彼にとって更に大切なものになっていく。もし他の誰かに買われていたら絶対に齎されなかったであろうその優遇をくれるルーファウスの為ならば、何でもしようという気持ちになっていく。
それはルーファウスが仕組んだことなどではなく、単にスティンの気持ちだった。
頼まれていないと分かっていても、ルーファウスの為に何かをしなくては…そんな気持ちが上昇し、それはやがてルーファウスの心棒者であるかのような状態になる。
しかしルーファウスは、スティンがそんな気持ちを上昇させていることになど気付かなかった。
それは、尊い感情であるはずの安心感が見せる、隙間だったかもしれない。
珍しくツォンがルーファウスのところまで書類提出にきたとき、ツォンはルーファウスにこんな事を言った。それはいかにも真面目な仕事の話の後だったので、一瞬ルーファウスは躊躇ってしまったほどである。
生真面目そうなツォンが、少し間を置いてから口にしたこと、それは。
「…そういえば先日、街で誰かと歩いてらっしゃるのを見ました」
「え?」
唐突にやってきたその話題に驚いたルーファウスは、一瞬訳が分からないと思ったものの、それがスティンであることにようやく辿り着いた。
なるほど、確かにここ最近はスティンと出かけることも多い。勿論それはほんの些細なものだったが。
「ああ…そうなんだ。実は今、家に住まわせている奴がいて、そいつとちょっと出かけていたんだ」
「家に住まわせている?…ということはご一緒に暮らしているわけですか」
「ああ、まあな」
スティンがDICTから来た者であり、その関係が完膚なきまでの主従関係であることを念頭に置いているルーファウスにとって、それはごく当然の答えである。がしかし、ツォンはその回答に少し眉を顰め、何やら腑に落ちない様子を露にした。
「ご一緒に…ですか、貴方のご自宅で。―――それは私にとって…少し悲しいことですが」
そう言われてやっとツォンの表情の理由を掴んだルーファウスは、慌てるでもなくスティンの事を説明する。
DICTや主従関係のことは置いておくとしても、ともかくスティンとの間には何も無いということ、言ってみれば同居者も同然だということを。
つまりツォンが危惧しているようなやましいことは一切無いということだったが、ツォンはそれでも納得していない様子だった。確かに同じ家に住んでいると言われれば、引っかかる部分もあるだろう。
「ツォン、私を信じてくれ。彼とは特に何も無い。私にとっては話し相手のようなものだし…それに、彼は私のこともそれほど知った人間じゃない」
「…そうですか。ルーファウス様がそう仰るなら…信じますが」
やっとツォンがそう言ったことで安堵したルーファウスは、その話は終わったとばかりに書類に目を落とした。
が、しかし。
「?」
ふっと、人の気配を感じて顔を上げる。
すると、先ほどまでデスクとドアの間にいたツォンが、すぐ目前にまで来てルーファウスを見遣っていた。そのツォンはいかにも真面目な顔つきをしており、まだ何か言いたいようである。
だからルーファウスは、どうしたんだ、と声をかけようとした。
しかし。
「ツォ…ン…!?」
突然、伸ばされた手がスイと頬を撫で、ルーファウスは驚いてそう声を上げる。次の瞬間にはツォンがデスクの背後へと回りこみ、深い口付けをしてきた。その時点でもう既に身体はきつく抱きすくめられており、とてもじゃないが振り払うなどできない状態である。
この突然のツォンの行動は、ルーファウスにとっては信じられないものだった。
何故なら今まで社内でこんなふうになった事はない。それはお互いが大人である以上言葉に出さずとも十二分に理解していたことだったし、それが普通だとさえ思ってきた。
それなのに、今日のツォンはどこか激情が走ったかのようにルーファウスをその場で求めてくる。
「どう…したんだ、こんな…こんな所でいきなり…」
心音が早まる中そう問うと、ツォンはくぐもった声でルーファウスの耳元に囁いた。
「貴方の事は信じます…しかし私の心も汲んで下さい。…妬けて仕方ないんです」
「ツォ…ン…」
「例え何もなくても、貴方が他の誰かと一緒にいるかと思うと気が気じゃない。だから、閉じ込めてしまいたくなるんです…今此処で」
そう言ってルーファウスの身を持ち上げたツォンは、その身体をデスクに押し付け重なるようにして己の上半身を預ける。そうしてゆっくりとルーファウスの髪を指で掬うと、その指で頬を撫でた。
「貴方は私のものなのだと…教えて下さい」
かかる息を頬に感じながら、ルーファウスはツォンを拒否せずに受け入れる。
この場では確実に良くないことだし、恋人であってもおかしいことだと分かっているが、そうしてツォンに求められることは最大の喜びのように感じられた。例え身体に直結している行為であっても、その言葉がルーファウスの心を捉えている。
スティンに嫉妬し、好きだと叫んでいるかのようなその言葉が。
「ツォン…」
やがて、ルーファウスは自らその衣類をたくし上げた。
露になった肌に這うツォンの指は胸の突起を愛撫し、そこが膨れ上がると今度は舌が這わされる。それと同時に下半身に滑り込んだ指は邪魔な服を床に落とし、包み隠さないままのルーファウスの性器を握りこんだ。
「んっ…あ…っ」
絶対に許されない副社長室での情事。
徐々に興奮を増していく己の体に、ルーファウスはツォンの愛情を存分に受けることになった。
平穏な日々の連続の中、唐突に訪れた変化。
それはスティンの中に少し不安の影を落とした。
最近のルーファウスが至れり尽くせりだったことですっかりご主人様の崇拝者と化したスティンは、その人が帰ってくるまでに何かできないものかと日々考えていた。
それは本当にちょっとしたことで、ルーファウスが帰ってきたらすぐさま飲み物を出せることであるとか、家事全般をこなすことであるとか、そういうものである。
日々それを考えながら物事を進めていたスティンは、家政婦よろしく家事全般をこなせるようになり、その気遣いたるやどこかのホテルマンほどに成長していた。勿論それはプロには劣るものだったが、自宅でしかないこの空間でルーファウスにそれを提供することは、今や彼の中で大きな意味と意義を作り出している。
ルーファウスは、大体いつも疲れて帰ってきていた。
そういう時はすぐさま飲み物を出し、必要であれば話し相手になる。話し相手だなんてあまりに傲慢な気がして仕方ないが、それでも彼の中でそれが大きなウェイトを占めていたのには勿論のこと理由が存在していた。
それは、初めて会った時にルーファウス自身が言っていたことである。
“ただ、誰かに傍にいて欲しかったのかもしれない”
その言葉を覚えていたスティンは、傍にいることで少しでも喜んでもらえるならと思い、気の利いた話の一つもできるようにと勉強も怠らなかった。
何も知らないスティンからすれば、ルーファウス宅にある書物の数々は全て興味の対象である。但しその中には当然難しいものもあったから、それだけは取り敢えず後回しにして。
「ご主人様はこんな本を…。帝王学、経済学、経営学、社会思想…株…?…難しいものばっかりだな…」
書棚の前でパラパラと本を捲っていたスティンは、まだ数冊しか読み終えていないのを実感して思わず溜息を吐く。
ルーファウスはこれらを読んだのだから、さぞ知識人なのだろう。そんなご主人様に色々と喜んでもらうには自分もそれなりに知識をつけねばならないが、本を読んでも架空の出来事みたいに実感が沸かない。
「…あれ?」
ふう、と息をついて本を棚に戻したスティンは、そうした後に最下段にある一冊の本に注目した。その本は、どうやら他の本と違ってさほど難しそうではない。その上、何だかルーファウスからは想像がつかないような本である。
「“告白の言葉”…?」
なんだろう、そう思って開いてみると、それはどうやら小説か何からしい。他の本が実用書なのに対しこれだけは小説…しかも恋愛の本だなんて、何だか驚いてしまう。
「そっか…そういえばそうだ。ご主人様、好きな人がいるんだろうなあ…」
ふとルーファウスの事を思い出したスティンは、想像のなかのルーファウスの脇に色んな顔を並べてみた。
少し控えめな顔、派手めな顔、幼い顔、大人っぽい顔…そうして色々摩り替えてみるが、どうにもこうにも想像がつかない。DICTでの経験が身に染み込んでいた彼は、今度はその脇に幾つかの男性の顔も浮かべてみたが、それでも何だかしっくりこなかった。
「ご主人様の好きな人…どんな人なんだろう…」
ルーファウスには殆ど休みが無い。それは既にスティンにも分かっていた。それでもルーファウスは少ない自由時間の一部をスティンと過ごしてくれていたから、もし他に自由時間があるとしても一体どの時間がそれにあたるのかスティンには分からない。
でも…もしそんな時間があったとしたら、当然好きな人と過ごしているのだろう。
そういう時、ルーファウスは一体どんなふうなのだろうか。
いつもスティンと過ごしている時みたいにしているのだろうか。
―――そんな事を思って、自然とドキドキする。
本来ならご主人様のことをあれこれ詮索するのはよくないことである。だから、そんな想像をしてしまったこと自体にドキドキとした緊張感が生まれてしまう。
「や、やめよう…うん、こんなの、悪いことだ…」
自分に言い聞かせるようにそう呟いたスティンは、慌てて小説を書棚に仕舞うと、ドアをパタンと閉めた。
と、その時。