ピンポーン、とインターフォンが鳴り、スティンは驚いて玄関を見遣った。
どうやら客人が来たらしいが、今までそのような事態に一回も遭遇したことのなかったスティンは、この来訪に対応して良いかどうかが分からない。
ルーファウスには何も言われていないから、対処の仕方が分からないのだ。
それでも、催促をするようにインターフォンは鳴り続けた。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン…
「あ…」
ルーファウスの自宅に自分が居ると言う事がどういう事か、それはハッキリとは分からなかったが、それでもあまり広めるべきことではないはずである。
けれど…―――ピンポーン、そう鳴り響くインターフォンが。
「……」
もし郵便物や宅配であれば出ないほうが問題だろうか、そう思ったスティンは、なるべく早く話を終わらせることを念頭に置き、ドアを開けることを決意した。
玄関に向かい、そっとドアを開ける。
恐々と。
「……はい?」
怯えたような表情をしながらドアを開けたスティンは、その向こう側の人物を見て、何でしょうか、と問う。
そこに立っていたのは、スーツ姿の黒い長髪の男だった。
男のスーツの胸あたりには、神羅と書かれた赤い社章が付けられている。一瞬冷たい印象を与えるような、整った顔立ちの男だ。
男は手に大振りの封筒を持っており、スティンを見るや否や少し驚いたように眼をピクリと反応させる。
がしかし、すぐに口元に笑いを作ると、手にした封筒を示しながら、
「失礼致します。急いでお渡ししたいものがありましたので」
そんな事を言った。
しかしそう言われてもスティンには何が何だか分からない。そもそもルーファウスが神羅という会社の副社長であることだけしか知らないスティンは、その部下の様子も、仕事の内容すら、全く知らないのだ。
「は…あ、あの…ご主…ルーファウス様は…まだ帰ってません」
どうしようと思いながらそう説明すると、相手の男はにこりと笑って「構いません」などと言う。その上、唐突にこんなことを言ってきた。
「私はルーファウス様の部下です。失礼ですが…貴方は?」
「えっ、あ…あの…スティンです」
「初めまして、スティン。私はツォンと言います。今日はこの書類を渡しに来ただけだったのですが、思いがけず貴方にお会いできて光栄です。確か…同居されているとかいう」
「あ…はい…」
同居?
そんな言葉はスティンの中には無かったが、それでもツォンの言葉からすればルーファウスがそういうふうに説明している事が分かる。だから此処は合わせねばと思って、それを肯定する。
しかし、そんなふうにしどろもどろでその場を潜り抜けようとするスティンに、ツォンは追い討ちをかけるような言葉を吐いた。
「でしたら、私の事は聞いていますか?私とルーファウス様とは、仕事上の関係だけではありません。もっと深い…分かりますね?」
「ふ…深い…」
「そうです。ですから…その立場から言わせて頂きたい事があるのですが、あまりルーファウス様に甘言をお与えにはなりませんよう」
「え?」
言っている意味が分からなくて、スティンは首を傾げる。
するとツォンは、にこりと笑っていた顔をすっと解き、冷たい顔つきになって言った。
「―――分からないのか?一言でいえばお前は邪魔だという事だ」
その言葉を耳にしたスティンは、ビクリ、と身体を後退させる。
棘のあるその言葉は勿論のこと、その男の表情も、その目付きも、全てのものがスティンに恐ろしさを与えた。
もっと深い関係だとそう言ったことからすれば…二人がどういう関係であるかは察しが付く。しかしそれでも、ルーファウスとそのような関係にある男がまさかこのような恐ろしい人間だとは思わなかった。
それともこの恐ろしさは、スティンがルーファウスと同居しているからこそ与えられるものなのだろうか。
「…気が変わった。書類は私が直にお渡しする」
依然冷たい顔のままでそう言ったツォンは、言うなりサッと身を翻した。
そうしてツォンはルーファウス宅を去っていったが、スティンはそれでもまだドアを閉める気になれなかった。…いや、動けなかった。
そのような出来事があってから数時間後、いつもより少しばかり遅い時間にルーファウスが帰宅した。ルーファウスは小脇に紙袋を抱えており、帰宅すると同時にスティンを呼び、その紙袋をスティンへと手渡す。
スティンは、突然渡されたそれにビックリしてルーファウスを見ていたが、開けてみろ、と言われそれを開けることになった。
紙袋の中にあったのは、一冊の本。
内容はあまり面白いものとはいえない実用書で、だけれどルーファウスの書棚に並んでいるものよりかは数段易しそうなものだった。
それを見て首を傾げたスティンは、慌ててルーファウスの顔を見遣る。すると、ルーファウスは少し笑ってこう言った。
「お前、書棚の本を読んでるんだろう?もし本当に学びたいなら、まずはその本を読むと良い。幾分か分かり易いだろう」
「ご、ご主人様…これ、俺の為に…?」
「あまり面白いものじゃないけどな」
要らなかったら捨てても良い、そう言ったルーファウスに、スティンはブルブルと首を横に振る。両手でしっかりと本を胸に抱え、ありがとうございます、と言いながら。
書棚の本を読んでいたのはスティンの勝手な行動に過ぎなかったのに、ルーファウスはそれに気付き、更にはこんなふうに気遣ってくれる。それはスティンにとって、この上ない幸せだった。今迄でさえルーファウスに対して感謝を忘れないスティンだったが、この時ほどそれを感じたことはなかったろう。
奴隷としか言いようのないはずの自分に、こんなことまでしてくれる。
多分それは、スティンの想像し得る最高の主人だった。
そういう気持ちは心棒する数値を肥大させたが、それだからこそ気にかかるものがスティンの中に通り過ぎる。それは他でもない、日中に会ったツォンという男のことだった。
ルーファウスの好きな人とはどんな人物なのだろうかと考えていた直後、スティンはその恋人だと名乗る人物に会ってしまったのである。しかしその人物は、スティンが想像した誰とも違う人間だった。
今こうして本をプレゼントしてくれるルーファウス…その横にあのツォンという男を並べるのが何だか妙に恐くて、スティンは未だにそれが信じられないままである。いや、信じられないというよりも、何故あの人なのだろうか、という疑問の方が大きいかもしれない。
だって、ツォンというあの男は―――恐い。
「あの…ご主人様」
ソファに腰を下ろしたルーファウスにさっと飲み物を出したスティンは、その横に腰を下ろしてから小さめの声でそう切り出した。
「ご主人様には…好きな人がいますか」
「え?」
唐突にそう言われ、ルーファウスは驚いてスティンを見遣る。
その様子に焦ったスティンは、言い訳のように舌を攣らせながら言った。
「あっ!あの、べ、別に良いんです!あの、本当にちょっとだけ聞いてみたいって、そう思っただけで、別にご主人様が嫌だったら…今の言葉は忘れてくださいっ」
「…何で突然そんな事を聞くんだ?」
焦っているスティンとは対照的に、冷静な様子でそう問うルーファウス。それは、一つ間違えれば怒りを買うのではないかという危惧を生み、スティンはどうしてもすぐに理由を口にできなかった。
もし此処でルーファウスが怒ったとしたら、もう此処にはいられないような気がしてとても恐い。しかし本当に恐いのは、ルーファウスに嫌われる事だった。
ふと、スティンの脳裏にツォンの顔が浮かぶ。
そのツォンに、笑いかけるルーファウスの顔が浮かぶ。
…何だか妙に恐い気がした。
「あの…ご主人様。今日、お客様が来たんです。その人は…」
恐い、そういう気持ちを一生懸命払拭しながら紡いだ言葉は、やがてルーファウスに全貌を届ける。しどろもどろのスティンの言葉は、今日ツォンが来たことを告げ、そのツォンがルーファウスとの関係を口にした事実を告げたから。
それを聞いてようやく納得ができたルーファウスは、ツォンの訪問についてより前に、最初にスティンが繰り出してきた質問への答えを口にした。
「確かに私には好きな相手がいる。それは、ツォンという男だ。…彼は私の大切な人なんだ」
「…恋人…ですか」
「一応そうだな。ツォンはとても優しいし、私はあいつを信じてる。ツォンがいないと辛いとさえ思うんだ」
「……」
いつにないルーファウスのその告白に、スティンは口を噤む。今までであれば絶対に見ることが叶わなかっただろうその表情はとても優しげで愛情深い気がした。
それを見れば、ルーファウスがいかにツォンを好きでいるか、いかにツォンが大切な人なのかが一目で分かる。そして、その人を失えばどれほど苦しいかさえも分かる。
ルーファウスにこれだけの表情をさせる人間が―――あのツォンという男。
けれどスティンには、どうしてもツォンが恐いとしか思えなかった。例えルーファウスがこれほど愛している人間であっても、スティンからすれば、一番恐ろしいと思えるものをツォンという男は有していたから。
それは、あの少ない時間のあいだだけで分かった表情の変化である。
最初、とても優しいと思われたあの顔。しかしその顔はすぐに変化し、とても冷徹なものと変わった。その冷徹さは言葉にも反映され、ツォンはスティンを貶めるような言葉を放ったのである。
別段、貶めるような言葉などは慣れている。そんなものは恐いとは思わない。しかしスティンが一番恐いと思うのはその変化であって、その変化は、スティンの身体の奥底に染み込んだ記憶と同化していた。
だって―――DICT、あそこにあるものと全く一緒なのだ、それは。
調教を受けてきたスティンは、調教師の男やDICTの店員達が見せるあの仮面を良く知っていた。
VIP会員には猫撫で声で甘言を囁くくせに、奴隷には恐ろしい調教を与える。VIP会員には何にでも使える従者とさえ言うくせに、奴隷には何にもできない人間のクズと罵る。麗しい仮面の下には、残忍醜悪な素顔。嘘の塗りたくり、偽者。
―――あのツォンという男はまるで、それを思わせるのである。
だから、スティンには恐かった。自分が何かをされるのではないかという事ではなく、そのような仮面の男がルーファウスの恋人であるという事実が。そして、ルーファウスがその仮面の男を心から愛しているという事実が。
「…ご主人様…恐いんです。俺、何だか怖い」
ぽつりとそう言ったスティンに、ルーファウスは首を傾げる。
「恐い?一体何が恐いんだ?」
まさか自分に恋人がいることが恐いというわけではないだろう、そう思いながら放ったルーファウスの言葉に返って来たのは、一つの名前だった。そう、ツォンという名前。
スティンは、ツォンが恐い、などと言うと、萎縮したように顔を俯かせる。
しかしそう言われたルーファウスは、何故スティンがそんな事を思ったのかがさっぱり分からず、それどころかそんなふうに言うスティンが何だかおかしくて少し笑ってしまった。
といってもそれは悪気がある笑いではなく、単に、一回会っただけで恐いと判断したスティンがまだまだツォンの事を知らないと判断したからである。
ルーファウスはスティンの肩に手を置くと、
「お前はまだツォンの事を知らないんだ。確かに最初は恐い雰囲気もあるかもしれない、あいつは真面目だからな。でも本当はとても優しい男なんだ」
「優しい…人…」
「ああ、そうだ。きっとその内、スティンにも分かるときが来る」
「…はい」
ご主人様の言うことは絶対である。そう分かっているスティンだったが、その時ばかりはどうしてもその言葉を信じることができなかった。
しかし表面上だけは肯定すると、ルーファウスはそれに満足したように笑う。
その笑顔はとても優しげだったから、何だかスティンは悲しくなった。
スティンとツォンが対面したと知ったルーファウスは、昼食時にツォンのところへと出向いた。
昼食を共にする事が滅多にないルーファウスにとってツォンの居場所を探すのは少し手間取る作業だったが、思ったよりかは早く見付かったらしい。何しろツォンはタークス本部に残っていたから。
そこに着くと、ツォンはルードと何かを相談しているところだった。何やら真剣な様子で話し合っているそれが一段落すると、ツォンはルードにふっと笑いかける。そして世間話でも続けたのだか、その後声を上げて笑った。
その様子を見て、ここ最近平穏だったはずのルーファウスの心には俄かざわめきが起こったが、ルードが無表情だったことが幸いしたのか、それほど苦しい感覚には陥らずに済む。
ルードが退室した後にそこに入り込んだルーファウスは、ついついぎこちない笑顔になりながらもツォンに話しかけた。
「ツォン」
「…ルーファウス様?」
その声に驚いて振り返ったツォンは、先ほどまでの緩やかな表情を一瞬だけ無表情に変えると、何でしょうか、と言ってすぐさま笑顔になる。その一瞬だけ見せた無表情が妙に心に引っかかりながらも、ルーファウスは時間の無さに話を進めることにした。