早足で向かったそこは、医療関連の特別室だった。
そこはあまり良い印象が無い。
科学部門にも関連している場所なせいか、白い清潔なベットやシーツでさえ、何故か薄汚く見える。将来や研究のためとは言っても、そこでは死体解剖やら何やらまで行われているのだ。
その中の一つのベットに、ツォンがいる。
それは妙にルーファウスを嫌な気分にさせた。そこにいるというだけで、まるで人間ではなくなったような気がするからだ。
そして、死を目前にしているということをまざまざと突きつけられるから……だから、何だか嫌だった。
バタン、と幾分強めにドアを開けると、ルーファウスはなるべく感情を抑えてその部屋に足を踏み入れた。丁度ドアを開けたそのすぐ先にツォンは横たわっている。
心音が聞こえそうだった。
恐る恐る白い寝台に近付いて、顔を覗き込む。そこには目を閉じたツォンがいて、それはとても安らかそうな寝顔だった。
「社長、いらしてたんですか」
そう言って奥の方から医者が姿を現す。それを確認してルーファウスは慌ててツォンの身から体を離すと、ああ、とだけ答えた。
その焦る姿に別段何も思っていないかのように、医者は寝台に近付き、ツォンに繋がる数本の管をチェックしだす。
「さっきまで起きてらしたんですけどね」
「話したのか?」
少し上ずった声でルーファウスが問うと、医者は「まあ」と答えた。
「だから連絡したのですよ。主任の口から、社長のご指名があったので」
「私を…?」
そうか、と言いながらルーファウスはツォンに目をおとした。
一体何を言ったのだろうか。
その内容は酷く気になったが、何だか聞くのは良くない気がする。ただでさえ、社長として一社員にこれほど気をかけるのは“おかしい”行為なのだから。
けれど、心の方はそれどころではなかった。そんな体裁などどうでも良いから、という気もする。
知りたい。
何を言ったのか。
その口から漏れた一言でさえ、聞き逃したくは無い。
そんなふうに思うのは、こんな状況だからかもしれない。以前であれば、こんなふうに焦ることなど何一つ無かったのだ。
例えツォンにどんな危険な任務を与えようと、こんなふうに思ったことはなかった。それは失敗などするはずがないという確信があったからかもしれない。
けれど―――――今は違う。
今となっては、それがあまりにも愚かだったと思うのだ。どんな時でも、死と対面していたはずなのに、それにさえ気付けなかった。
思えば、そういった死との対面の中で、自分は守られていたのだろう。
それを超えてきたツォンが、自分に何を言いたいのかは、とても気になることだった。
あの時は、自分に社長たる態度でいろと言ったツォン―――やはりそれは、今も変わらないのだろうか。
こんな状況になってもなお、自分はたった一人の人間の為に、個人として言葉を発してはならないのだろうか。
「社長の容態を気にしてらしたようです」
ルーファウスの心を読んだように、医者はおもむろにそう呟いた。
「さすがはタークス主任ですね。一番最初に口をついた言葉がそれだなんて」
「それは…」
返す言葉に詰まってそう言うのに、また医者の言葉が重なった。
「さすがは神羅を愛していらっしゃる方だ」
「―――……」
今度は確実に言葉が出なかった。
そうだ、忘れていた。
そう思ってルーファウスは少し口を緩めた。
医者の言った言葉は真実だった。ツォンは、神羅を第一に考えているに違いない。今まで自分に向けられていた言葉を考えると、それはいつも自分を通して神羅に向けられていたのだ。
そうだ―――――私ではなく、神羅だった。
そう思いながらも、心のどこかで何かが崩れそうになる。
何を期待していたのだろうか。ツォンはいつでもそうして守ってきたのだ。
自分でなく、神羅カンパニーを。
ルーファウスでなく、神羅カンパニー社長を―――。
「社長、このまま此処で待たれますか?」
思考を途切れさせるように、その言葉は響く。それに対して「ああ」と一言だけ答えると、医者は納得するように頷いた後、何かをルーファウスに差し出した。
「社長にも本来なら安静にしていて頂きたい。気休め程度ですが、これを」
そう差し出されたのは小さなカプセルだった。白と黄色が合わさった小さなカプセルで、言葉からするにやはりビタミン剤の一種らしい。
こんなものはいつも飲んでいるのに、とは思ったが、ルーファウスは静かにそれを受け取ると、そのまま口に放り込んだ後に礼などを言う。
しかしそれは本当に、気休め程度のものでしかなかった。
それを飲み込んで間もなく、ルーファウスは口を開く。
「……時に、臓器の話なんだが」
「ええ、はい?」
医者の方はそれなりのルートでその話を進めていたらしいが、やはり芳しくはないらしかった。だからか、その言葉に顕著に反応を見せる。
「適合とか不適合というのは…主に血液の問題だろうな?」
「ああ、…まあ、そうです」
本当ならばそれ以外にも問題は勿論あった。適合とはいうものの、なるべくならば近しい臓器が望ましい。それは家族や兄弟といったように。だが残念なことにツォンにはそういう存在もいない。
「それはつまり……ツォンならば、どういった臓器が適合なんだ?」
そんな事を聞いてくるルーファウスに眉をしかめながらも、医者は淡々と回答をする。
「血液で言えば、主任の場合はA型ですから、A型若しくはO型の血液であることが最低条件になります」
とはいえそれが成功というには大まかすぎる、と医者は付け加える。確かにその通りである。
医者は期待するような面持ちでルーファウスの顔を覗き込み、ルーファウスの次の言葉を待った。
と、ルーファウスはこんなふうに呟く。
「私の一つを―――――提供できないものだろうか」
「…社長…?」
驚いてそんなふうにいう医者に、一つ頷いて床の一点を見つめる。
視線の先はタイル張りの床で何があるというわけでもなかったが、思考に入り込むには丁度良い。
「この体の一部を……ツォンに」
「しかしそれは」
それは色んな意味で大事だった。
例えば、社長たる人の体をいじること、社長たる人がそこまでの執着を見せること、そして何よりルーファウス自身もあまり体調が芳しくないこと。
医者にとっては、ルーファウスがそこまでの態度を見せるその理由が、目前に横たわるツォンにあるとは思えなかった。
「……頼む」
そう言って強い目を見せるルーファウスに、医者は少しした後、仕方無いといったふうに息をついた。
「―――――では精密検査を」
もしこれでツォンの命を繋げるならば、それだけで良いと思った。
側にその体温がある―――――そう思えば自分は自分でいられるのだと思った。
それだけが、自分が手を尽くせるものだと思った。
権力などその命の前には無力で、ただ自分は生きている。生きているこの体があって、それを少しばかり切り崩すことで、救われるならば。
この体など、捧げてしまおう。
けれど。
彼は――――受け入れてくれるだろうか?
“あなたはちゃんと、立っていて下さい”
そう言った人間が、神羅の為に命を投げてきた人間が、そんな事を許してくれるだろうか?
それでも分かって欲しい。
この命を守ってきてくれたその人に、この命の存在理由を、分かって欲しい。
そこにその命が無ければ、この命はただの容器に過ぎないという事を―――。
立ってなど、いられない―――――その事、を。