木曜日:目には目を!
半休状態でさっさと神羅を出たルーファウスは、少しばかり仲の良い取引先の男と渋く飲んでいた。いや、正確には渋い店で渋い酒を、支離滅裂状態で飲んでいた。
先ほどレノから聞いた事実に、ルーファウスはかなりの勢いで躍起になっていたものである。
ああ、そうかい、そういう事かい、……そんな具合である。
レノはなるべく言葉を選んでいたようだが、ルーファウスにしてみればどうあがいてもその事態はたった一言に収束することだった。
そう…いわゆる世間一般でいう、浮気、である。
そりゃそうだろう、イリーナは若い上に、許せるくらいには可愛いし(注:ルーファウス的見解)それは良かったことだろうよと、そう思う。
しかし、それはあまりにも悔しかった。
二晩も寝れずにいた自分がよほど馬鹿だと思った瞬間だった。
だから、世の中には便利な言葉もあったもんだとルーファウスがほくそえんだのも仕方ないことだったろう。ちなみにその便利な言葉とはコレである。
そう――――”目には目を、歯には歯を”!
ぶっちゃけていえばこれは、じゃあコッチだって浮気してやる、というかくも単純な考えだった。がしかし、ここにはとても残念な現実があったのである。
ルーファウスは、取り敢えずは誰でも良いから浮気相手を探そうとワケのわからないことを考え、誘える人間を片っ端から調べ上げた。とはいっても目的が目的なので、ルーファウスが生理的に受けつけない人間は却下となる。
そんなふうに調べた結果、とても残念なことに、ルーファウスにはそういう人間がいないという重大な事実が発覚した次第であった。
何ていうことだ―――――!
その瞬間はとてつもなくショックだったが、そこに丁度良い具合に取引先の男が電話などをかけてきたものである。
その相手はプライベートでもそこそこ気があいそうな男で、目的を果たすとなるとちょっと考え物かと思いもしたが、この際文句は言っていられない。
いざ浮気!たった浮気、されど浮気!何がなんでも浮気!
そんな奇妙な決意と共に渋い店なんかに入り、渋い酒などを頼み、そして―――――。
「あはははは~」
……壊れていた。
「ルーファウスさん、大丈夫ですか!?」
相手は勿論、相当お困りだった。当然である。
商談をしようと電話をしたというのに、それを遮って飲みに付き合えなどと言い出したのだ。
それはそれで悪くないと思ったが、彼もまさか想像していなかっただろう。ルーファウスがこんなに壊れていようとは。
「も~今日は飲むぞ~!」
「ま…真面目に言ってるんですか?」
もう十分飲んでる。血もアルコールになってる。
「良いんだ、さあ、飲もう!友よ!」
いつから友になったのか知りたい。
「あ、あのですね…例の商談なんですが…」
「え!?あ~商談!そうそう、そうだったなあ~。そうだ、これは深刻だ。なあ、どう思う。浮気だって、浮気。最低だろう、そんなことする奴」
自分がしようと企んでいるくせに、ルーファウスはそんな事を言い出した。
「は?浮気、ですか?…ああ、そりゃ確かにまあ、いけませんなあ」
そう答えたものの、彼は一般的な男である。その気持ちが分からないでもないと密かに思ったが、神羅の副社長(壊れ気味)を目の前にしてはそうも言えなかった。
「だろう!?だから私は決めたのだ!!」
「な…何をです…?」
「だから!浮気だ!決まってるだろう!?」
「ええっ!!?」
男は驚いた。どこの世界に公言して浮気する奴がいるというのだろう。いや、いる。此処に、目の前に!
そう決意表明をした後、ルーファウスは突然のように男をじっと睨んだ。実はそれは見つめているつもりだったのだが、なにぶん酔って目が据わっているせいか、そんな和やかにはいかなかった。
しかし着実に相手に寄り添うと、ルーファウスは威嚇に近い雰囲気を漂わせながらとうとうこう切り出したのだった。
「なあ、私と…浮気してみないか…?」
何だか思考の中にいろんなものがうごめいている。
一日振りに帰ってきたツォンは、自分の部屋(くどいようだが仮)を見回した後に、ソファにドサリ、と身を下ろした。
この家のドアを開けるとき、パスコードがかかっていた。勿論それは自分で敷いたものだったが、何だかやけに後悔してしまった。
まさかルーファウスが尋ねてきたということはないだろうが、それにしてもわざと隔絶するみたいにそんな事をした自分が何だか馬鹿らしい気もする。
ルーファウスには“隠そうとなんて思っていない”とか何とか言っておきながら…。
「もう帰ってるのか…?」
そういえば、ルーファウスはどこに行っていたのだろうか。
もうさすがに帰宅しているだろうか。
というか、そんな心配をするくらいなら仲直りらしきことくらいした方がいいような気がする。…というか、仲直りという言葉を使うのも何ともいえないが…。
でも――――――。
「……た…たいた、な…」
言い争いならまだしも、こともあろうに頬をパシンとやってしまったのだ。さすがにこれには後悔の念を覚えずにはいられない。
といっても、それが悪いことかどうかというと、そういう訳でもないような気がする。いわばルーファウスのした事への、ちょっとした仕置きみたいなものだろうか。
「しかしな…」
とはいえ、やはり叩いたのはマズかったろうな、と思う。
自分がそんな事をしたのが初めてであるように、ルーファウスにとってもそんな仕打ちを受けるのは初めてに違いない。
「はあ…」
そんな落ち込み度100%のツォンの元に、電話がかかってきたのはその時であった。
誰だ?
そう思いながらゆっくりと電話を取り出してディスプレイを見遣る。
すると……
「なにっ!?」
何と、そこにはルーファウスの文字があるではないか!
これは偶然か、はたまた神様のイタズラか!?
…と、そんな事を思う暇もなくツォンは通話ボタンを押した。
何故かその時は躊躇いが無かった。多分、この現状から脱したいと思っていたからだろう。
「ル、ルーファウス様っ」
素早く出た割には声が緊張してしまってる自分が少しばかり恥ずかしい。
………が。
『あ、もしもし。ええと…ルーファウス神羅氏のお知り合いの方ですよね?』
その瞬間、ツォンの脳天に雷が落ちた。
思わず身体が固まり、電話を落としそうになる。
「誰だ!?」
全くもって不可解なことに、それはルーファウスの声ではない。というかその言葉からして本人でないのは歴然だったが、それにしてもこれは一体どういったことなのか。
ルーファウスが他人に自分の所有物を貸す、などということは考えられない。特に電話などというものはプライベートもプライベートではないか!
恋仲だったらメールチェックなんかをコソコソして浮気発覚などという事もありうるほどそこはワンダーランドだというのに、まさか他人が触れているなんて……これはツォンにとって許すまじことである。
『ああ、申し訳ない。私は神羅カンパニーと取引を…』
こうして、その男の簡易プロフィール兼用件は始まったのだった。
車で30分。
その間、ツォンはイライラをどうしても止められなかった。いつもなら慎重な運転が無意識に荒くなってしまう。
此処からはプライベートだ、そう思って途中でネクタイを緩め、スーツを乱雑に後部席に放った。
男が伝えた内容は、こうである。
早い話が、
“ルーファウスを迎えに来てくれ”
そういう事だ。
正直そのような事態は慣れているし、それについて文句をいうつもりもない。それどころか今の状況なら喜んで行くところだ。しかし、今回ばかりはそうそう浮かれてはいられなかったのである。
何故って、ルーファウスを迎えに行くその場所が、こともあろうにその男の自宅だというのだ。
ルーファウスが誰かのプライベートに入るなんて―――――。
しかも、話によると相当酔っているらしい。
そんな――――そんな男の前で、自分以外の人間の前でなんて。
「…っ、そっ…!」
とにかく苛立つ。
30分ほど経過してたどり着いたその家は、幹部クラスの人間にしては質素なマンションだった。しかし、その方が余程苛立たしい。何故って、そういう場所の方が感情に溺れやすいからである。
教えられた部屋の前まで行くと、ここだけは、と深呼吸などをしてからインターフォンを鳴らす。それが鳴り響いた後、少ししてその男は現れた。
「ああ、どうも申し訳ない。短縮0で、貴方の番号だったもので」
そう言った男は、どうして良いか分からなくて、などと言いながら苦笑する。そんな彼は、ツォンが思っていたようなことをしそうには見えないほどの優男だった。
どうぞ、と言われて上がった先に、微かに金髪が見える。
少し、ドキリとしてしまう。
しかしその感覚も、しっかりとルーファウスの姿を目にした後には消えていた。いつもならこんなことはコントロールできるはずなのに、まるで一昨日の夜のように…いや、それ以上に、理性がきかない。
すうっと静かな寝息を立てているルーファウス。髪はとても乱れている。酔いで騒いだだけとも考えられるが、でも―――――。
縦に6つほど並んだシャツのボタン。それが、中央の一つだけはめられている。しかしそのたった一つが、掛け違えているのはなぜだろうか?
その他のボタンは外れている。しかも良く考えてみれば、そのシャツはルーファウスのものではない。だってルーファウスは社内でそんな格好はしていないのだから。
「すみません。実は…」
申し訳なさそうな顔をして背後から近付いてくるその男を、ツォンはふっと振り返る。
その時ツォンの表情に浮かんでいたのは、激しい怒りだった。
咄嗟に男の胸倉を掴んだその手に、無意識に力が入る。
「この人に、何をした――――!」
どうにも収まらない怒りに、今すぐ目前の男を始末してやりたい気分だった。しかしそうするにはあまりにも分が悪い。何せ相手はどうやら神羅の取引先の人間らしいし、しかも今、彼は相当に怯えた顔をしている。
そもそも始末という発想自体間違っていたが、その判別すらその時のツォンにはあやふやだった。
「な、何もしてない…っ」
「嘘を吐くな!」
「本当、だ…っ。ただ、着替えさせた…だけだ」
信じられない、そう思いながらツォンは目を細める。良く見れば目前の男のシャツのボタンも上二つが外れているではないか。
「貴、様…っ!」
そこからはもう正常な判断はできなかった。
目前の男が誰であろうが、何といっても今はプライベートなのだ。プライベートというからには、その人に自分以外の人間が触れることは許されない。
だからそれは、プライベートとしては正しい処置だったのだ。…おそらく。
ドゴッ!!!
――――それは、ツォンがその人らしからぬ行動をした夜であった…。
一刻も早く帰ろう、そう思って車に乗り込んだツォンだが、後部座席にルーファウスの身体を預けたきり、何故か動けなかった。
外は雨が降っている。短距離とはいえ雨の中を通ったので、ルーファウスの身体も濡れていた。ツォンはまだ外にいるので、リアルタイムでその雨を受けている状態。
全く目を覚まさないルーファウスは、ツォンの視線すら気付かず、未だスヤスヤと夢の中にいるらしい。そんな姿を見つめながら立っていたツォンは、暫くすると、自身も後部座席に乗り込み、そっとドアを閉めた。
乱れ、濡れた金髪を指ですくってみる。
それから、何も知らないままのルーファウスをそっと抱きしめ、はだけた胸に顔を埋めて目を閉じた。
―――――きっと、怒るだろうな。
そう思う。
昨日、イリーナに抱きつかれて戸惑った時…その金髪だけが目に入っていた。少し発色は違うのだが、それでもツォンのような漆黒の髪からすれば、それは光る色だった。
それを見て、つい抱きしめ、髪などを梳いてしまったのは気が動転していたからだ。
その髪を見ながら思い出したのは、目前のこの人でしかない。この人のことを思い出し、その身を抱きしめてしまったのだ。
―――――きっと、怒るな。
こんな状況なのにそんなのは都合が良いと、きっとルーファウスは怒るだろう。
他人に重ねてしまうほど大きい存在なのだと言ってみても、きっと怒るのだろう。
「…ルーファウス……」
今此処で、この人にキスをしても誰も何も言わないはずだ。
だって外は雨で、誰からも見えはしないから。