23:皮肉な幸せ
プルルル…
電話が鳴る。
表示には、マリア、とある。
それを見た瞬間、ツォンはどうともいえない感情に取り憑かれ、その携帯電話を床に投げつけたい衝動にかられた。
が、すぐに心を鎮めると、ゆっくりとその電話に応答する。
「…もしもし」
『ツォン!私よ、マリア!』
そんなことは分かっている、そう冷静に答えるツォンに対して、マリアは焦ったような声を出してきた。
『お願い!今日どうしても話したいことがあるの!』
「…悪いが、今日は大事な用事がある。また今度時間のある時に―――」
今日は無理だ。
だってレノとの約束がある。
あんな表情のレノに、真摯に対応しなくてどうするというのだ。
『いつも私の我侭に付き合わせてることは分かってる。だけど今日はどうしても…』
「いや、無理だ。私も今日はどうしても抜けられない」
『でも!ツォンの会社の話なのよ!』
「―――なに?」
突然放たれた思いがけないその言葉に、ツォンは固まった。
ツォンの会社の話…つまりそれは神羅の話ということである。しかしマリアは神羅になど関係ないし、ツォンも神羅の話などマリアの前ですることなど滅多に無い。
一体どういう事だ、そう思ったツォンは、その内容の如何を確認しようとする。
すると。
『ツォンの会社の副社長を狙ってる人がいるの!本当は…秘密なんだけど…』
「ふ、副社長…だと?」
それはつまり―――――ルーファウスの事ではないか。
『悪さばかりしている人たちなの。きっとその副社長の命を狙ってるんだと思う』
「まさか…それは一体どんな奴らなんだ!?」
『話せば長くなるわ。実はその…知り合いで…。だから会って話したいの!』
「……」
命を狙われている……ルーファウスの命が。
そう思うと、ツォンはいてもたってもいられなかった。
タークスの使命としても、ルーファウスを愛する人間としても、そんなことは絶対に許せない。それが僅かな芽であっても握りつぶさねばと思う。
それに―――――あの人を、守りたいから。
「…分かった」
ツォンは険しい顔つきになると、端的にそう返した。
ビジネスホテルなんてどれぐらいぶりだろうか。
あの1022号室に比べたらいかにも質素でいかにも味気ない。
しかし嫌なわけではないから、落ち着かないということもない。まあ言わば普通、ということだろう。
約束の10時にHOTEL FIRSTにやってきたルーファウスは、フロントで思わず首を傾げてしまったものである。
指定された部屋が305号室だったからてっきり既にレノが来ているものかと思っていたが、フロントに聞いてみると空き室だという。だからルーファウスは、不審に思いながらも取り敢えず自分の名前でチェックインをした次第である。
ルーファウスは10時きっかりにHOTEL FIRSTにやってきたのだが、それから1時間経った今でもレノは姿を現さない。
一体どうしたというのだろうか、レノは。
今日はレノからの誘いだし、そう考えるとレノが此処にやってこないのはいかにもおかしいことである。
今回のようにレノから誘われるのは初めてだったから、ルーファウスはそれが嬉しくて仕方なかった。本当であれば嬉しいなどと思うのは卑怯だが、それでもそう思ってしまったものは仕方がない、それが本音なのだから。
がしかし、こうなってしまってはその喜びも消えてしまいそうである。
「…やっぱり、こうなるのか」
ルーファウスは窓の外をチラリと見やりながら、少し寂しそうに呟いた。
この大雨の悪天候で、もしかしたらレノは約束などどうでも良いと思って帰ってしまったのかもしれない。いや、もしかすると最初から来る気など無かったのかもしれない。
まあどちらにしろ、今ここにあるものだけが現実であることは確かだろう。レノが此処にいないというそれだけが、ルーファウスに示された現実なのである。
ルーファウスは打ち付けてくる雨をぼんやり見やりながら、ふとあることを思い立って己の鞄を開けた。そしてその中から例の煙草を取り出すと、シュッと火をつける。
もくもくと上がった煙は、甘ったるい匂いをルーファウスに運ぶ。
その匂いを脳に受けて、ルーファウスはそっと目を閉じた。
この部屋は1022号室ではない―――――だから、この匂いが染みついていない。
だからせめて、その匂いを漂わせてみようと思って吸った1本だったのだが、これは当然のことながら逆効果だった。
そう、この匂いが既に不義だけではないということを自宅でも散々に理解したのだから、これはいわば自傷行為と同じである。
約束をしたにも拘らずレノが来ないこの部屋で、彼を思い出す匂いを吸い込む。
そうして瞑った目の中であの熱さを思い出す。
「……」
―――――惨めだ。
そうとしか思えない。
その上最悪なことには、今日のような大雨は“あの日”をルーファウスに思い出させた。それはツォンと初めて抱き合ったあの日のことで、人肌をとても暖かいと感じた初めて日のことである。
残念ながらそれは1022号室の出来事であって、この部屋でのことではない。
しかし今はその方が好都合というものだろう。何せ明確に思い出さずに済む。
あの日、雨の匂いのする1022号室は暖かだった。
そして、甘ったるい匂いのする1022号室は、やはりこれも暖かだと感じていた。
でも―――――今日は、独りきりだと、そう思う。
雨の匂いもするのに、
甘ったるい匂いもするのに、
傍には誰もいない。
暖かくない。
「……」
ルーファウスはふと、スラム街の人々の健常な笑顔を思い出した。
そして、今此処で独りきりの自分を、その笑顔の隣に並べてみる。
それは、あまりに惨めな光景。
笑えもせずに膝を抱えて縮こまる自分が、まるで笑いものにされているような錯覚に陥る。
全てから見放されて、そうされているにもかかわらず体裁ばかりの誇りを掲げている滑稽な自分の姿が思い浮かび、急激に何かが咽びあがってくる。
「っ…!」
ルーファウスは込み上げてくるものを抑え込むように胸の辺りを押さえると、唇をかみ締めながら時計に目をやった。
時刻は既に約束の時間を1時間半以上過ぎており、秒針はルーファウスを冷たくあしらうかのようにズレなくきっちりと動いている。
チッ、チッ、チッ、という音が妙に息苦しい。
「…馬鹿だ」
こんな―――――来もしない人を待ちわびるなんて。
ルーファウスは時計を見つめたまま、レノはもう来ないのだろうと思った。
1022号室に呼び出すとき、レノはすぐにやってきてくれる。あんな不義の関係で、何があるというわけでもないただのセックスの付き合いの為に、そうしてちゃんとやってくるのだ。
そういうレノが、これほど遅れるなんて考えにくい。
きっと…そうだ、最初から来ないつもりだったのだろう。
もしかしたらこれは、間接的な、1022号室の関係を終わらせようというメッセージなのかもしれない。そう考えれば納得がいくし、そこまでされれば終わらせるほかない。
ただでさえツォンとの間で“こういう事”があったのだから、この方法はルーファウスにとって効果覿面といえよう。尤もレノはその事実など知りもしないだろうが。
「…皮肉だな。あの日も雨で…今日も雨で…」
始まった日は雨で、終わる日も、雨。
なんて皮肉なんだろうか。
ルーファウスはそっと膝を立てると、それを抱え込んだ。
そうして新しい煙草に火をつけると、一口吸った後にすぐさま灰皿に置いた。
その1本の煙草は吸いたいためにつけたわけではなく、あくまであの匂いを充満させるためにつけたものである。
せめて―――――最後くらい、皮肉な幸せを味わおう。
甘ったるい匂いが漂う中、ルーファウスは抱えた膝にそっと顔を埋めた。
怖くない、怖くない。
独りでいることなんて、慣れているじゃないか。
そう、心の中で唱えながら。