34:何者でもない存在
尾行されているようだから、暫く様子を見よう。
そう切り出したのはルーファウスの方だった。
自分が切り出したくせに寂しいと感じて携帯に手を伸ばしそうになったときには、さすがにルーファウスも自分自身を軽蔑せざるを得なかったものである。
今回かかっているものは自分の財産や命だけの話ではない、レノもまた狙われているのだ。
それを考えれば二人で行動することはタブーであり、寂しいからといって呼び出すのもタブーに違いない。寂しさと命を秤にかければ、答えは自ずと出てくるものだ。
「ダメだ…」
自宅で独りきりだったルーファウスは、悶々とした気持ちを鎮めようと無理やり仕事の書類を引っ張り出した。
例の男の脅迫じみた言葉が気になって社内では完了できなかった書類一式を持ち帰ってきていたのである。
楽しくも無い、厳しい文面。
それに目を通してみるものの内容はまるで頭に入ってこず、どうしても気持ちが違うところに向いてしまう。
それでも必死に書類を眺めていると、ふと視界の中に色の違う書類が見えた。それは厳密に言えば書類ではなくメモで、発信元はプレジデント神羅だった。
書面の見出しには、こうある。
“親睦会 招待客リスト”
「そういえば…」
そういえば、もう招待状を送ったのだとか言っていたか。
大したことのないこの親睦会に父親がかけている金は莫大である。場所がプレジデント神羅邸であることは抜かすとしても、並べられる料理だとか装飾品だとか、とにかく余念が無い。
しかし今度の親睦会では、何かが―――――起こるのだろう。
しかも、自分をターゲットとした何かが。
本来ならその親睦会に関し自分はあまりにも無関心だし、招待客とて自分を重要視していいない。それなのに、まるで落とし穴のようにそこに問題が生じるというわけだ。
「あの男…」
興味の無いリストを見つめながら、ルーファウスは呟く。
まさか、このリストの中にあの男がいるということはないだろう。
尤も、仮にいたとしても名前と顔が一致しないのだからさっぱり意味がない。
―――――こんなことは、慣れているはずなのに。
思えば、こうして何某かのターゲットにされることには慣れていた。そう、昔から神羅の御曹司というだけでその身はターゲットとして成立していたのである。
まだ物心もつかない頃に何度か誘拐未遂という事件も起こり、その時は多少怖いと思ったものの、今ほど嫌な気分にはならなかった。
それは多分、本質そのものを理解していなかったということに加えて、今ほど弱みが無かったからなのだろう。
弱み?―――――これは弱みというのだろうか。
分からないけれど、多分、そう。これは弱みなのだ。
何しろあの男は言ったではないか、出生の秘密を知っているのだと。
それがルーファウスやプレジデントにとって弱みだからこそ、あの男はそこに付け込んで脅迫したのである。
「…おかしな話だな。私だって知らなかったのに…知りもしない他人が私の秘密を知っているなんて」
ルーファウスの顔には、俄か引きつるような笑みが浮かんだ。
ルーファウスが自身の出生の秘密を知ったのは、つい1年ほどの前のことである。
それまでルーファウスは、ルーファウス神羅という名前を持ちながらそれ相応の人間として当然のことをしてきた。
それが故に抱いた悲劇とも呼べる数々の感情もあった。
それは、自分が自分だからこその葛藤であって、もし最初から神羅の跡取り息子などという立場ではないと知っていたら、多分これほどの葛藤は生まれなかったのである。
それなのに、知りもしない全くの他人が、それを知っていると口にした。
ルーファウス神羅という名前や肩書きを持ったが故の葛藤や苦しみを何一つ分かりもしない他人が、己の欲望の為にそれを利用するのである。
何て馬鹿らしいのだろうか。
何て。
「神羅なんかじゃ…そんなんじゃない…私、は」
うわごとのようにそう呟いたルーファウスは、無意識のうちに招待客のリストをギュッと握り締めた。それは圧力によって皴を作り、まるでゴミのように丸められる。
しかし実際そのリストは、ルーファウスにとってゴミも同然だった。
だって、そのリストに並べられた名前は何だ?
その名前の羅列は、プレジデント神羅主催の親睦会の招待客の名前である。だが、それが一体なんだというのだろうか。
以前から意味が分からないと思っていたが、考えて考えて考えて…自分の正体が何者なのかを考えれば、それが更に無意味だということが分かる。
プレジデント神羅にとって重要なものであっても、自分にとっては重要でも何でも無いのだ。
だって自分は、本当は神羅の血など流れていない。
プレジデント神羅は、本当の親ではない。
本当の自分は何でもないただの人間で、それだというのにルーファウス神羅という名前を与えられたが故に全てを背負っただけなのだ。神羅の副社長という立場も、神羅の未来の社長という立場も。
でもそれは―――――決して自分が望んだものではなかった。
与えられたから、背負った。
信じていたから、意味があった。
今思えば、自分は高い地位にある人間なのだという誇りを糧に自身を保っていた過去があまりにも空しい。だってそうだろう、それすら単なる幻想だったのだから。
しかしそれにも増して空しいのは、その誇りすら幻想だったと知った後、だったら自分には何が残るのだろうかと考えた時に、何一つ残らなかったことである。
ルーファス神羅という名のもとに生きてきた以上、それは仕方の無いことかもしれないが、それでもその事実はルーファウスを唖然とさせた。
社屋で挨拶をしてくれる社員たちも、自分を神羅の御曹司だと称える人々も、それどころかプレジデント神羅も、全てが全て、その名前があるからこそ自分の近くにあり続けるのである。
もしその名前を今の自分から取り払ってしまったら、本当に何も残らない。
普通の生き方も知らないし、普通の話し方も知らない。
きっと、自分の周りには誰もいなくなってしまうだろう。
もしかすると―――――レノもそうかもしれない。
「……」
そう思った瞬間、先ほどまで携帯に手を伸ばそうとしていた自分があまりにも惨めに感じられた。
タブーと知りつつも連絡をすれば、きっとレノは来てくれるだろう。好きだという言葉や、温かい腕や身体も、きっと彼は惜しみなくくれることだろう。
だけれどもしそれが、神羅という名前故のものだとしたら?
神羅の副社長でありながらも寂しさに負けている自分、それがレノの心を呼び寄せたとすれば…やはりそこにも何も残らないのではないだろうか。
勿論、そう思いたくは無い。レノの事は信じていたい。
だけれど、人の心など判らない。
長い長い間、自分に出生の秘密を隠してきた父親のように、嘘は限りなく真実に近いものにもなりえるのである。
―――――そうだ、思えば……ツォンだって同じことじゃないか。
本音を吐き出して、それを受け止めてくれたツォン。
それはとても嬉しかったけれど、それとてレノと同様で、ルーファウス神羅という名前から受ける印象と本当の姿とのギャップが生んだ、まやかしの愛情だったのかもしれない。
ああ、もしも―――――。
自分を捨てられたら、どんなに楽だろう。
自分ではない存在になってしまいたい。
ルーファウス神羅という存在でもなく、その名前に依存した正体不明の誰かでもなく、何でもない存在になってしまいたい。
「私は……独りきりだ」
丸めたリストをそのままにして目を閉じたルーファウスに、波のような寂しさが襲ってくる。
そうなった瞬間、ルーファウスの手からはらりとリストが零れ落ちた。
今までリストを手にしていた手はゆっくりと膝を抱え、ルーファウスは胎児のように蹲る。
やはり、直せない。
殻に閉じこもるように膝を抱える癖。
寂しい。
寂しい。
そう思うけれど、でも―――――…、
それでも携帯には手を伸ばせないと思った。
あの煙草の甘ったるい匂いも、今は嗅ぎたくないと思った。