49:レノの決意
「…分かんないな」
「え?」
「何でだよ。そこまで分かってるクセに、だったら何でツォンさんとの未来なんて選ぶんだよ。ツォンさんだってそうだ。本当にそれが分かってるなら、こんな結末…こんな結末オカシイだろうが」
分かっていても認めたくは無い、そういう心がレノにその言葉を吐き出させる。
そんなレノにマリアは、分からないわ、と答えた。
それは彼女の正直な気持ちに他ならない。
「今だったら分かるのは、私には子供が産めて、あの副社長さんにはそれが出来ないって事。私とツォンには、好き合っていなくても一緒にいる理由が出来てしまった。だけどあの副社長さんとツォンは、好き合っている証拠がないと一緒にいる理由がなくなってしまう…って事」
「証拠なんて」
感情に証拠なんてありやしない。いつ何時変化するか知れない得体の知れないそれに、証拠など与えられるはずもない。
だから証拠はいつも、お互いの中だけにある。時折世間の認識という力を借りるにしても、根本はお互いの中にしか存在していない。
しかしそれは、あまりにも曖昧な線引きだった。
曖昧だからこそ、こうして世間の認識が先行した場合にはそれに負けてしまうのである。懐妊と言う世間の認識の方が、曖昧な線引きよりもハッキリしたものだから。
マリアのその言葉はつまり、感情ありきで選ぶ未来ではない、ということを示していた。
「―――――ねえ、一つ聞いても良い?」
「あ?」
マリアはふっと顔を上げると、レノを見てこう言う。
「貴方は、あの副社長さんの事が好きなの?」
「―――」
そのマリアの言葉に、レノは口をギュッと結んだ。
何を聞いてくるのかと思えば――――まさかそんな事を聞いてくるとは思ってもみなかった。
それは核心をついていたし、実際こんな突飛な行動に出たことはその感情を曝け出しているに過ぎなかったが、まさかこの会話の中で自分がターゲットになろうとは思わなかったレノである。
結局レノは、その言葉に「まあ」と抑揚のない声で答えた。
「あんたらが幸せによろしくやってくれれば俺は俺で万々歳ってワケだ。邪魔者もいなくなって綺麗サッパリ。今日あんたに会ったことで副社長がツォンさんを恨んでくれれば俺は思い残すことナシだ。そうだ、俺は最低なんだよ」
俺は、あんたとツォンさんが大後悔でもしてくれりゃそれが幸せになんだよ、とレノは口にする。しかしその言葉は、レノがルーファウスとの未来を望むこととは若干違う意味を持っていた。
別段、後悔したツォンの羨望を受けたいというわけではない。
後悔したツォンの傍で少なからず苦しむだろうマリアを嘲笑したいわけでもない。
ただ、レノは釈然としなかった。
邪魔でしかなかったツォンにあのように言われ、まるで長きに渡る緊張の糸が解けたようになり、自分は最早自由で、さしたる問題も見当たらない。これは望んでいた状況でもあるわけだし、本当ならば喜びだけが溢れて然るべきである。
がしかし、そう安直に喜べるほど単純な脳など持ち合わせてはいない。
“世間的に真っ当な理由”で身を引いたツォンは、それこそ世間的にも責任を果たしたことになるだろう。それはルーファウスを絶対に傷つける行為だけれど、同時にルーファウスの中に焦りや落胆を齎すに決まっている。
人は、手に入らぬものほど憧憬するものである。
“世間的に真っ当な理由”で身を引いたツォンは、ルーファウスの中では手の届かない憧憬と変わってしまうだろうし、曖昧な線引きがハッキリとした世間の認識に負けたことは、それに更なる拍車をかけるはずだ。
その事実がある限り、安直な喜びなど感じられるはずもない。
だってそうだろう、絶対的な憧憬に変わってしまうツォンに対し、ルーファウスが焦りや落胆を燻らせるだろうと考えている自分は、結局のところ事実を“分かっている”のだ。
それこそ好き合っている“証拠”が自分とルーファウスの間にあれば良かったが、それはやはり曖昧な線引きでしかなく、その中でさえ自分は“ルーファウスならばそう考えるだろう”と思っている。
何故ルーファウスに対してそんなことを思うのか。
その答えは一つしかない。
つまり、ルーファウスは自分の事など好いていないと、“分かっているから”だ。
それが分かっていなければ、そんなふうに考えなどしない。気付いてなどいなければ、自分の感情を押し付けるだけで幸せを感じられたのだろう。
ルーファウスがどれほど自分を求めたとしても、それはあの日から変わらないのである。
HOTEL VERRYに初めて呼び出された日から、共にいる“理由”は変わってなどいないのだ、ずっと。
それでもお互いが傍にいたのは、キッカケがあったから。
そのキッカケが弱みみたいなものを生み出したから。
どんなに自分が有利な状況になったとしても、“手に入らないことを分かっている”から“喜べない”のだ。
“喜べない”から未来など考えられない。だってその未来を紡ごうとしても、“手に入らないことを分かっている”のだから。
「手に入らなきゃ、意味なんて無い。そう思わないか?でもな、手に入らなきゃ意味がないってのは、手に入らないと思ってるからこその考え方なんだよ。手に入れられるかもしれないと漠然と思ってるときはさ、そんなのどーでも良いんだ。自分がどうなっても、相手が良けりゃそれで良いって思える。それはつまり焦りが無いからだ。でも焦りだすと、結果が無けりゃって思う。―――――俺は今、結果が欲しいと思ってる」
「―――」
「そう思った瞬間から、俺は負け戦してるんだ。俺はツォンさんが身を固めるって言ったときから、そう思うようになった。自由になった瞬間からそう思うようになったんだよ」
矛盾してるだろ、そうレノは言う。
だけどそれは、ツォンという枷が外れたことで自分には手に入らないことが明白になった、その証拠なのである。
要するに、自分の感情にとってツォンは言い訳でもあったのだ。ただの邪魔者というだけではなく。
「でも俺はツォンさんみたいにはならないから。俺は向き合ってたい。結果が同じだとしても俺は、世間に守られて逃げるんじゃなくて俺の意思で玉砕したい」
「傷付いても…ってこと」
「そ、傷付いても。それが俺のやり方だ」
レノはそう言うと、マリアを見て―――――僅かに、笑った。
しかしそれは直ぐに消え、レノはまた元のように鋭い顔つきを浮かべた。そして、先にも口にした言葉をもう一度口にする。あんたもツォンさんも許せない、というあの言葉を。
しかしその言葉は先ほどとは違い、既に玉砕覚悟の意思を含んだ言葉だった。