50:「おめでとう」
レノが戻ってきたのは、既に一時間は経過したあとのことだった。
レノが姿を消していた一時間、ルーファウスはほとほと困り果てていたものである。
両脇にいる女性が気を利かせてくれたおかげで話題には事欠かなかったものの、その受け答えには窮することが多く、レノが帰ってきた頃にはぐったりと疲れてしまっていた。
そもそもこういう場には慣れていないし、初めて来た今日の感想からすれば自分にはほとほと向いていない。
ある意味では、あのスラム街の人々の太陽のような笑顔と同じである。それほどの疲れを運んでくる。
しかし大きな違いが一つあり、それは彼女たちが自分をブランドとして見ていることにあった。
副社長と称えられる限りは何の役にも立たぬ誇りが保たれる。そこが違う。
「遅かったな、レノ」
「ああ、悪い。ちょっと話し込んでて」
そう言ってルーファウスに笑いかけたレノは、その後チラとマリアを見た。マリアはルーファウスの姿をじっと見つめており、どこか切なそうな表情をしている。
そんなマリアはレノに視線を移すと、切なげな表情を更に悪化させた。
それに気付き、レノはすっと笑みを消していく。
「レノ、その…一体何を話していたんだ、こんなに長く」
疲れと不安が入り混じった表情でそう聞いたルーファウスに、レノは別に大したことじゃない、と回答する。
大したことじゃないのに一時間もかかるのかとルーファウスは疑問になったものだが、それは口に出せなかった。
何しろ、具体的な話など聞いてしまったら気がふれてしまうかもしれない。
何を話していたのかと問うた割に、本当はその内容など聞きたくなかった。気になるものの、知りたくは無い。恐ろしいとさえ思う。
そもそもルーファウスは、レノが自分を此処に連れてきたその真意すら分からない状態なのだ。
「あ、そうそう」
その時ふっと、レノがそう声を上げる。
そして、タブーの話題を持ち出した。
「今マリアちゃんと話したんだけど、彼女、ツォンさんと目出度くご結婚だって。腹ん中にはお子さんもいらっしゃるってな話だけど」
「―――」
切り出されたその話題に、ルーファウスは当然、目を見開く。
その話題は知ってはいたものの、まさかこんなふうに明け広げに出されるとは思ってもみなかったものである。
その上場所が場所である、まさかこんな場所で―――――それを聴く羽目になるなんて。
「うそお!そうだったの、マリア!おめでただったら早く教えてくれれば良かったのに!」
「そうよそうよ!あ~本当にセレブになっちゃうのねっ」
事情を知らぬ女性たちは、マリアの懐妊を目出度いと表現し、口々に賛美の言葉をかけた。
が、当のマリアはその状況に戸惑いを隠せない様子で、取り繕いの笑顔だけを浮かべているという状態である。
その中で、マリアは当惑の目を向けた。その先にいるのは――――――ルーファウス。
「あ…あの、私――――」
視線が、交錯する。
外野のざわめきが何とも言えず煩雑に思える。
見たくもない現実なのに、何故かお互い目が離せない。
一番触れてはいけない腫れ物のような存在に違いないのに、それでも。
「―――――おめでとう」
やがて、口を開けたのはルーファウスの方だった。
ルーファウスは呆然としたような、それでいてどこか辛そうな、複雑な表情を見せている。
そんな表現しがたい表情の中で口にしたのはそんな言葉で、それは最早感情を伴ったものではなく単なる言語だった。
喜びを表す言葉。
―――――喜びなんて、どこにも無いはずなのに。
「どうか…幸せに」
ルーファウスはまるでうわ言のように続けると、それと同時にすっと立ち上がった。
それを見てマリアは焦ったように口を開きかけたが、そこから言葉が漏れることはなく、結局その会話はそこでストップしてしまう。
ルーファウスが席を立ったことは、既に帰ることを意味していた。
レノはそれに伴って立ち上がると、わざとなのかマリアの真横をすり抜け、去り際にルーファウスと全く同じ言葉を呟いた。おめでとう、どうか幸せに、と。
その言葉は外野の女性たちにとっては目出度いだけのものだったが、マリアにとっては酷く後ろ暗いなにかを連れてくるものだった。
そしてその後ろ暗さは、悲しみを伴ってもいた。
「おいおい、待てって!」
店を出たルーファウスは、レノに歩幅を合わせることなく先導を切っていた。
此処にやってきたときのように車に向かっているのだが、そもそもその車はレノが運転しているものである。
だからルーファウスが先導を切るのはどうにもおかしな話だったが、その行動はひとえに焦りや不安、落胆と感情が生み出したものだった。
そしてもう一つ、怒りという感情が。
「待てよっての!」
「…」
レノのその言葉に突然歩を止めたルーファウスは、無言のままレノを振り返った。そして、何とも表現できない表情でじっとりとレノを見遣る。
それに気付いたレノは、急ブレーキをかけるように立ち止まった。
「――――レノ。一体どういう了見でこんなところに来たんだ」
不思議な表情をしたルーファウスは、静かな語調でそう口にする。
「何を企んでる?」
「企んでるって…別にそんな大層なもんじゃないけど。でも、一度くらい会ったって良いんじゃないかと思って。だって、知りたくても勇気が無かったんだろ?」
「……」
ルーファウスはふっと伏せ目がちになった。
勇気が無いというその言葉が、あまりにも的を得ていたからである。
確かに勇気はいつも無かった。それはマリアに対するものだけでなく、ツォンに対してさえいつも無かったものである。
「でも、さ。良いんじゃない、それで。それが自分なんだから」
レノはそう言うのと同時に、足を踏み出した。そして一歩一歩進み出ると、やがてルーファウスの真横まで来て、そっとその掌を掴む。
夜の深くなった街は、そこが郊外であるが為に人が少なく、丑三つ時のようにしんと静まっている。
出てきたばかりのCLUB ROSEだけがぼんやりとした明かりを放っており、二人はその零れた光に照らされていた。
レノは、ルーファウスの掌を掴んだままその身体をぐっと抱き寄せる。そうしてしっかりと抱きすくめると、
「レノ君の胸はルーファウス副社長専用にリザーブされてるけど?」
そう言った。
一瞬、すっと怒りだとかが消失して、思わず笑ってしまいそうになる。
だけれど顔は完璧に笑うことなんて出来なくて、結局その顔はどこか歪んだものになってしまった。
だが、それも今は良いかと思える。どうせ見えやしないのだから、この胸の中では。
「…こんな日には最高だな」
ルーファウスはそっとそう呟くと、レノの胸の中でそっと目を瞑った。
ちっぽけで、臆病で、いざというときに何も出来ない自分。
そんな自分を隠すように。