3rd [PASS]:01
綺麗に纏め上げた髪を揺らして、彼は振り向く。
そして、笑う。
真っ白なスーツの端が、振り向いた拍子にひらりと舞った。
司令室の中、ただ一人立っていたルーファウスは、呼び出したツォンがやってきたことを確認した後に、ふっと笑った。
「一緒にどうだ?」
そう言ったルーファウスの手には、洒落たグラスがある。その中で透明な液体がゆらめく。
「ええ、頂きます」
そう答えてツォンは一礼する。
「堅苦しいんだな」
そんなところも悪くないけれど、と続けたルーファウスは、ツォンの為にもう一つのグラスを用意して、その中の同じ液体をそそいだ。
その動作を見つめながら、ツォンはルーファウスの側へと歩み寄る。注ぎ終わった手がすっと止まった瞬間を見計らって、ツォンはその手をぐいと引き寄せた。
瞬間、胸にルーファウスの体重がかかる。
ルーファウスはツォンの胸に寄りかかりながら、中途半端に残った液体を口に注ぐと、すっと窓の外を見やりこう口にした。
「ツォン、この世界も悪くないだろう。汚いという奴らもいるが、意外と綺麗なものだ。そうは、思わないか?」
「―――――仰る通りで」
いかにもまともな返答をした後に、ツォンは手にしたグラスを口に近づける。その動きの下で、ルーファウスはそのままの表情で言葉を続ける。
表情は――――――少し、嬉しそうだった。
「それが何でか、お前は分かるか?」
「さあ、何故でしょう」
ツォンの問いに、答えは無かった。が、少しした後にふと笑みをもらしたルーファウスが、「秘密だ」と呟く。
「そうだ、ツォン。ホストコンピュータのことだが、パスワードの変更があってな」
「仕事の話ですか」
「まあそう怒るな」
「怒ってなど…」
「嘘だ、怒ってる」
ルーファウスはそう言い返して試すように笑う。
それを目にしたツォンも、思わず微笑み返してしまった。本当に怒ってなどいなかったのに、まるでそれを認めてしまったかのようで嫌だったけれど。
パスワードは…そう言いながら唇が重なった。
閉じた目の中にはお互いの姿がしっかり映っている。
そして、二人の背後には広大な世界が映し出されていた。
願うものがあるとしたら、それは、現在進行形の絶対的存在。
綺麗と称した透明な世界の中の、たった一つの道標。
その正体が何かは、良く知っている。
どこか空ろだった。
突きつけられた現実か、若しくは優しすぎた幻想のせいだろう。
とにかく勤務中はそれなりの仕事をしようと不備の多いビルにやってきたツォンは、例によって社長職を担うはずの男の側にいた。
昨日告げられたとおり、今日はシステム稼働のテストがあるらしい。その為に呼ばれたというのが大きい。
昨日のうちに機械搬入が終了したそのビルは、すっかりオフィスの様相を呈していた。綺麗で立派なオフィス、けれどいつか見たあの雰囲気とは随分と違うと思う。何しろあのころは、もっと機能的で、もっと無機質だった。
機能的でない部分はそれなりの改良を要したが、それ以外は働く人間も暖かく、気分も悪くない様子である。
しかし、なまじ過去の情報が頭の片隅に残っているだけに、恨めしい。これがもし無機質な建物だったならば、見つけたものがもっと暖かく感じられるのに。
「ツォン」
呼ばれて、ツォンは振り返った。一瞬何故か微笑などが浮かんだが、振り返ったそこに見た顔につい微笑が消えた。
「…はい、何でしょう?」
あの男だった。
「これからテストだっていうんだ。来てくれないか」
「はい」
陽気に笑う男を横目で見ながら、ツォンはそっと席を立つ。
少し準備があるからと言って今まで待たされていた部屋を出て、機械の群れの中へと向かう。前には男が歩いているが、その背中を見ながら、何だかつまらない気分になった。
男はまだ若く、これからのことを楽しんでいるように見える。ツォンが背後にいることを知りながらも、話しかけるのではなく何かを呟いている。予定がいっぱいだ、明日は、明後日は…そんな具合に。
確かに彼のスケジュールは毎日決められているようだったが、それもツォンからすれば大したことではなかった。
けれど問題は、この男はきっと、ツォンをずっと側におくだろうということ。つまり彼がいるところに必ずツォンがいる状態になるのだ。
真っ直ぐ男の背中を見つめながら、ツォンは考えていた。
ルーファウスの背中もこうして見つめていた頃があったはずだが、その頃はこんな嫌な気分にはならなかった。後ろから見つめながら…もっと別のことを考えていた。
今、同じ状況でも、あの時と同じことは考えられない。
見つめる背中が同じではなかったから。
そんなふうに思いながらも歩いていくと、暫くして男が振り返った。
「取りあえず見てくれるか?」
「はい?」
「此処だから」
そう言って男がすぐ隣にある部屋を指し示す。どうやらもう目的の場所までついていたらしく、その部屋の中にはコンピュータが一台、置かれていた。
歩いてきた廊下は広く、今隣にある部屋の他にも5つの部屋がある。その部屋にはそれぞれ群れをなして機械が詰め込まれていたが、今隣に見える部屋には一台しかない。
男と共にその部屋に入り込んだツォンは、早速というように作業を進めた。
なるべく手際よく進めてみるが、どうにも気分がのらないせいか、ツォンにとっては自分の動作が緩やかに感じる。
一台の機械。
この一台が他の何台ものコンピュータの管理をする。
そしてその何台もの機械が、それぞれの町に置かれるであろう機械の管理をする。
皆のいうシステムとやらを取りあえず稼動させなければいけないわけだが、その作業は少し面倒なものだった。
システム構築した人間は勿論ツォンではないし、本当ならこの場にもっと重要な人物がいるはずである。それが今二人だけなのだから、本当に無理がある。というか、その内一人は傍観者と同じだったが。
ツォンが操作する横で、男は暫く画面を見つめていたが、そのうち飽きてきたのか窓際にへばりついた。そして外を眺めながら世間話を始める。
彼は機械の操作手順を何も分かっておらず、ただ役職の為にこの場にいるといってもいい。彼自身もそれを理解しているのか、こんなことを言い出す。
「俺は役立たずで悪いな」
手を休めることなく、ツォンは静かに返答する。
「いえ、そんなことはありません」
「父さんならもっと分かるんだけど、俺は良く知らないんだ、こういう事」
それでも年齢的に自分がこの地位に立たされたんだと男は続ける。つまり望んで此処にいるわけではないということだ。それでも将来への期待は彼なりに持っているのが分かる。
ただし、何も知らない彼にとって、その期待する将来とは的確な見通しができないものであるに違いない。
身の上話などに変化してきた会話に、ツォンはこう漏らす。
「貴方は曲りなりとも世界を変えたいと思っているのでしょう。でしたらもっと考えるべきです」
「厳しいんだな」
「組織とはそういうものでしょう。仮にも貴方はその上に立つのですよ。貴方がそういう言葉を口にしてはいけません」
しっかりとそう述べたツォンを見遣りながら、男は腕組などをして「だから」と口にした。
「だからツォンがいてくれるんだろう?俺はそのつもりだし、父さんだって、他の皆だってそう思ってる。良きアドバイザーだ、って」
全く問題ないようにそう言う男に、ツォンは静かに溜息をついた。
頼られること自体は嫌ではないが、相手が相手だ。
全く期待しないものを作り上げるためのアドバイスとは一体何なんだろうか。確かにこの地位に自分が納まったことはこれからのことを見越してだろうが、それでも従うべき相手がこれでは問題である。
とはいっても、そんなに親身になって考える必要はない。
何故ならこの組織も、今の立場も、自分にとっての目前の男も、何の意義もないから。
「一つ、お伺いしても良いですか」
「何だ?」
一呼吸おくと、ツォンはそっと言葉を口にした。
「今の世界をどう思いますか?…綺麗ですか、汚いですか」
そう言われた男は、不思議そうな顔をしてツォンを見ている。何故いきなりそんなことを言い出したのかが分からないといった顔である。
大体、男にとって今の仕事はそういう次元の話ではない。
綺麗とか、汚いとか、そういう尺度は男の中に存在しなかった。
「さあ、そんな事考えたこと無いな」
「…そうでしょうね」
「だってそういう問題じゃないだろ。綺麗とか、汚いとか。馬鹿馬鹿しいじゃないか。強いていうなら汚いのほうかな。改善していこうっていうんだから、取りあえずは良いとは言い切れない。でも“良い”が“綺麗”とイコールかっていうとそうじゃないだろ」
そうだよな?、と男は同意を求めたが、ツォンは首を縦には振らなかった。
綺麗とか、汚いとか。馬鹿馬鹿しいじゃないか。
確かにそうかもしれないが、昔同じ立場にいたルーファウスはそう表現していた。それは今のこの組織が改善のために動いていることと、神羅が維持のために動いていることとの違いではなく、価値観の違いである。
世界を、良し悪しで判断する。
世界を、綺麗さで判断する。
神羅カンパニーが行ってきた数々のことは、確かに綺麗ではなかった。誰かにとっては良い世界で、誰かにとっては悪い世界だったから、そんな言葉では図れなかったのである。
もちろん、良い世界だと口にできる人間にとって、その世界が綺麗だったとも言い切れない。
悪い世界だったことや、汚い世界だったことなど、知っている。それでも、その中で少しでも綺麗だといえる感情があるなら、救われる。
崩壊後の辛い時期、元神羅の人間にとってそれがどんなに悪い世界でも、「今のままで良い」とルーファウスが言えたのは、その中でも綺麗なものを残せていたからだ。
「…それも良いでしょう」
結局そう答えたツォンは、何となく笑みをもらした。
きっとこの男になど、従えない――――そう思いながら。