22:雲隠の月
“なあ、ヴィンセント。夜は同じ部屋で良いよな?”
―――――悪いが、遠慮する。
“買出しだって。一緒に行こう”
―――――誰か他の奴を連れていけばいい。
“何だか最近…あんまり話さないよな”
―――――さあ、気のせいじゃないか。
“ヴィンセント……”
―――――話しかけるな。集中しろ。
“ヴィン……?”
―――――……
“ヴィン……”
―――――……
心が波立っているのは自分でも理解している。しかしそれでも、静かに耐える。
それしかない。
それしかない。
どんなに辛くても、どんなに哀れに思っても、それに耐えるだけなのだ。
彼の望むものは、もう与えない。
彼が望むものは、もう与えられない。
与えてあげたくても、それは許されないのだから。
前のようにどこかで夜を過ごそう――――そう言ってその夜を過ごした。
そして、その翌朝から状況はガラリと変わった。
ヴィンセントの態度はまるで素っ気無くなり、今までの事がすべて嘘のようだった。
それはクラウドだけが感じる事実だったが、だからこそ誰にも相談できず、一人で抱え込み、人一倍重くのしかかる現実でもあった。
何がいけないのか?
何故いきなりそうなったのか?
そんな事ばかりがクラウドの頭のなかを旋回する。
けれどそれに対する答えはなく、それを聞く機会すら与えられなかった。
クラウドが“クラウド”を手に入れたその理由や、その存在意義は、いうまでもなくヴィンセントにある。それはヴィンセントも承知しているはずだった。
クラウドは本音を隠したままとはいえ、大方の事実をヴィンセントに話したのだから、ヴィンセントがすべてを理解しているのは当然だろう。
つまり今のこの状況は、ヴィンセントによるクラウドの存在否定―――――そうとしかクラウドには考えられなかったのだ。
しかし、より酷く、より暗く渦巻くものは、そういった表面的なものではなかった。
一番心を抉るのは、そこに”求めるものが無い”こと。
それは、クラウドが存在するための絶対条件。
それが―――――もう、無い。
ああ―――――助けて、ヴィンセント……
頭が割れるように痛い。
いや、もしかしたらそれは心なのかもしれない。
血が溢れるほどの深い心の傷は、目に見えなくても確実に何かを壊していた。
「俺は…」
ヴィンセントと話すこともなく、触れることもない日々が、もうかれこれ何日続いている。
そんな状況の中、それでも強く意思をもつことは大事だった。
そうでなければ、クラウドの「想い」から形成されただけの自分という存在は、何もなかったように消えてしまう。
それだけは許せない。それだけは絶対に避けたい。
けれど、そうして“自分は絶対に存在しなければならない”と思えば思うほど、それは現実からみてとても矛盾した悪あがきのように変化していった。
そうだ、元々何のために存在していたのだろうか―――――自分は…?
そんな疑問が浮かび、その答えを考える。
しかし、それは馬鹿げた行為だった。
だって、答えは出ているのだ、最初から。
元々、自分に存在意義などなかった。
ただ、表面に消化できない隠蔽された心が、その想いをどこかに吐き出そうと、もう一つの心を生み出したに過ぎないのだ。
それが、自分。
それが、夜だけに表出した、自分。
そこには、意味などない。
そこには、“しなければならない”事も、“してはいけない”事も、なにもなかった。
最初からそのような意義のあることは何一つ無かったのである。
それは知っていたし、そうだからこそ憎んでいた。馬鹿らしい感情を震えたままに心の閉じ込めた、その男を。
けれど、いつの間にか、その男とたった一つだけ意義のあることが一致した。
それは、“しなければならない”事でもなく、“してはいけない”事でもなく、、
――――――“したい”事、だった。
「苦しい…」
欲しかった。
いつだって。
たった一つ。
―――――その人の“心”が。
ベットにもたれながら心臓辺りを握り締めたクラウドは、たった一人きりの部屋の中で苦しい息を漏らしていた。
特に身体の調子が悪いわけではない。けれど、息苦しくて仕方がない。
そんな中で色々なことが巡る。
それは考えたくもないことだったが、こんな状況になった今としては考えざるを得ないことだった。
もうヴィンセントは、自分を振り返りはしないだろう―――――そんな事が、巡っている。
それから、ずっと憎み続け、そして見返してやったと思った自分自身のことも、頻繁に頭を過ぎった。
「俺の生きてる意味は…」
意味も、意義も、無い。
たった一つだけ、“したい事”や、“欲しいもの”が一致した。ただそれだけの話である。
そこに、意味だとか絶対的な事実だとかを作り上げていたのは……たぶん自分自身だったろう。
何一つ意味のなかった存在に、存在理由をつけて。
何一つない意味のない行為にさえ、理由をつけて。
そうして言い聞かせてきたそれは、自分の中で大きなものに変わっていった。
そうだ、自分は生きていかなければいけない。
生きたい、生きていたい。
そう―――――思ったのだ。
「馬鹿らしい…」
そっと目を閉じ、クラウドは自嘲する。
あまりにも馬鹿馬鹿しい。
本当は全て、自分よがりなのだと分かっていたけれど。それでも許せなくて、憎くて、そして同じ人を見つめていた。
今、隣の部屋にはヴィンセントがいる。
それは知っていて、同じ部屋にしようと言ってみたものの、結果は予想通りだった。
たった数センチの壁の向こうには、自分の生きる意味がある。
けれど、たった数センチの壁が、それを隔てている。
たったそれだけのことで、心は壊れそうになる。
けれど、それが明日になれば解消されるかといえばそうではなかった。もう、ヴィンセントの取る言動は目に見えているのだから。
「あれは嘘だったのか、ヴィンセント…」
あの夜―――――抱きしめてくれたのは嘘だったのだろうか。
「それとも同情だったのか…」
優しく笑ってくれた時間は嘘だったのだろうか。
疑問と、苦しさと、自分への軽蔑が、溢れてしまうような気がする。
それでも答えさえ出ないことは知っていた。だから、こうして考えること自体、もうすでに無意味だった。
そう――――必要なのは、たった一つだけ。
それでも、そのたった一つのものは、自分から離れていくのだから。
「あ…あ…、月が……」
閉じそうになる瞳にふと何かが入り、ああ、と思った。
それは、いつも見ていた、夜の月。
しかしその月は、クラウドの視線の先で、暗い雲にかかり消えていった。それはとても緩い動きだったが、その後に月の明かりが視界に入ることはなかった。
あの月のように……
夜を象徴するあの月が隠れてしまったように、もうここには何もないのだろうか?
そうだとすれば、やはり最初から無理なものを望んでいたのかもしれないと思う。
その時、ふとある事を思い出した。それは、“自分”の想いである。
「そうだ…言えなかったんだな…お前は…」
ヴィンセントを見つめていた、誰かの瞳を知っている。
相手を見つめたまま口を開けなかった、その男の苦しい心の内を知っている。
それを俯瞰して見ながら、何でそんな簡単なことすらできないのだろう、とせせら笑っていた。
自分という人格がヴィンセントと初めてセックスした日、心の中であざ笑いもした。
お前が望んで望んで望んで…それでもできないことを、自分はいとも簡単に成し遂げてやったのだ、そう思っていた。
自分は絶対にヴィンセントの想いを手にいれ、それを繋ぎとめる、そうも思っていた。
しかし――――…
「今なら…分かる…な」
あまりに苦しくて、思わず笑いが込み上げた。
あれほど馬鹿にしていたあの男の臆病な気持ちが、今なら痛いくらい分かる。
どうして口で伝えることができなかったのか、それが今なら分かる。
何の恐れもなかったかつての自分の方が、よほど不思議な気がする。
思えば、今までの自信はどこからやってきたのだろうか?
それは“欲しい”ものが何一つ無かった頃には、完璧なものだったはずなのに。
それが、今では脆いガラスのように思える。
いや…もっと違うものかもしれない。
例えばそれは―――――透明に見えていただけの、頑丈な檻。
―――――ヴィンセント…やっぱり無理なんだな。
―――――俺はいつまでたっても膝を抱えたままで、そこから出ることも叶わなくて。
―――――だけど。
そんな存在でも、意味のない存在でも、
「俺はアンタが好きだった」
クラウドがやっと目を閉じた頃、月は少しだけ顔を現した。
けれど、それはすぐに雲に隠れていった。