25:HOTEL FIRST 305号室
「お…い、何だよこれ…!」
その内容を目にした瞬間、レノの表情は一気に険しくなる。
その変化にマスターは「どうしたんだよ」と心配げに問うたが、メールに釘付けのレノの耳にはそれが届いていないようだった。
メールの本文は、至って簡潔。
しかしレノを憤慨させるに充分な文面。
“悪い、今日は急用が入った。本当にすまない”
それは確かにツォンからのメールだったが、しかしレノが思うようなサンキューメールでも苦情メールでもなく、断りのメールだったのである。
しかも、約束の時間からもう二時間も過ぎているというのに今更このようなメールを送ってくるなんて、とても信じられない。人を馬鹿にしているのかと怒鳴りたくなる。
「こんな奴だったなんて…くそっ!見損なったぜ!」
レノは怒りに任せて携帯を荒々しくしまうと、マスターの奢りであるというトリプルストレートのウイスキーを一気に飲み干した。
その行為に思わず目を丸くしたマスターが何やかんやと叫んだが、レノは一向に気にせずグラスを空にする。
どうせ、酔えやしない。
むしろ、怒りで思考が明瞭になった気さえする。
「マスター、ごちそーさま!」
レノは財布から数枚の札を取り出すと、それをバン、とカウンターに押し付けて急いで立ちあがる。
「おいレノ!おつり!」
「いらない!」
カラン、と優雅に鳴るドアベル。
その音を背にしながら、レノはその場を走り去ったのだった。
バーを出て、とにかくとにかくダッシュし続ける。
しかし生憎と今日は悪天候で、外は土砂降りの雨。
傘も持たずにバーを飛び出したレノは、容赦なく打ちつける雨に構うことなく、ひたすら走り続けた。向かう先は一つ、レノが指定したHOTEL FIRSTの305号室である。
だって、そう――――そこにはルーファウスがいるから。
レノとの約束だとしか思っていないツォンにとって、今日の約束を破ることなどきっと他愛も無いことだったのだろう。
しかしレノにとっては、今日の約束は最高の心遣いだったし、自分の気持ちを差し置いてまでのセッティングだったのである。
だからこそ、それが破られてしまったのはとても大きなことだった。
自分の気持ちを犠牲にして、我慢して、そうしてまでしたセッティング。
それなのに。
「クソッたれ…!!」
どうして――――どうしてそんな奴なんだよ、あんたは!
ツォンが約束を破ったということは即ち、二人は会っていないということである。
そしてそれは、305号室にルーファウスが独りきりだということを示していた。
もしそこにツォンが現れたら、あるいはルーファウスは幸せだったかもしれないが、逆にツォンが現れない場合…つまり今日のようなアクシデントが起こった場合、幸せの逆ということになってしまう。
だって、ルーファウスはいつも寂しそうだった。
いつも寂しそうな顔をしながら1022号室で自分を待っていた。
本当はツォンに来て欲しいくせに、それが出来なくて、レノを待っていた。
そんなルーファウスが約束の時間から二時間も待たされたらどう思うだろうか?
きっとルーファウスは、裏切られたと思うに違いない。
これがいつものようにルーファウスからの呼び出しで、場所が1022号室だったならばまだ話も分かるが、今日はまるで違うのだ。
場所は、305号室。
そして呼び出したのは――――レノだったから。
「くそ…っ」
レノは唇をかみ締めながら唸るようにそう呟くと、雨で重さの増した体をそれでも素早く動かした。
早く、早く、早く、約束の場所にいかなければ。そう思う。
大雨に加えて強風である今日は、レノの行く手を悪戯に拒んで止まなかったが、だからといってそれに屈している場合ではない。
雨の冷たさが体中を蝕んだが、そんなものがどうでも良いとレノは思った。
とにかく進めば良い、ルーファウスのいる場所に向かって。
幸いレノの行きつけのバーとHOTEL FIRSTとはそれほど離れておらず、歩くには少々時間がかかるものの厳しい距離ではない。
誰も歩いていない深夜12時に、少しおかしな男が走っていようが、別に問題はないというものである。
走って、走って、走り抜ける。
そうしてどれくらい走ったのだか良く分からないが、気付けば体中が雨まみれで、言葉のあやなどではなくレノは全身びしょ濡れになっていた。
何とかぼんやりと見えてきたHOTEL FIRSTの明かりに若干スピードを緩めたレノは、ビジネスホテルとはいえキチンとしたホテルのロビーに、どう考えても不釣合いな状態で入り込んでいく。
ぺたり、ぺたり…
歩くたびに床に水溜りが出来上がる。
すっかり下におりてしまった髪からはぽたぽたと水滴が零れ落ち、それがレノの頬に伝った。顎に溜まった水滴は、幾らかの大きさに膨らんで、ぽたり、と床へと落ちていく。
ホテルの受付にいた女性はそんなレノの姿に驚いていたが、「305号室に連れが来てるんです」と告げると、それではごゆっくり、と少々不審そうな顔つきをしながらもそう言ってくれた。
305号室に着くまでの間に、レノは携帯のディスプレイをそっと確認する。
時刻は、深夜12:20。
「……」
ああ――――約束の日が、過ぎてしまった。
レノはその事実に落胆しながらも、ルーファウスのいる305号室へと歩いていく。
一歩一歩ルーファウスに近づくたびに気が重くなるのは、約束を破ってしまったのはあくまで自分でしかないという事実のためである。
レノの予定では、此処に来るのはツォンのはずだった。
ツォンが現れれば、ルーファウスを呼び出したのが自分であろうが何だろうが、全ては上手くいくはずだったのである。そう、自分の気持ち以外のものは全部。
だけれどツォンは現れなかったから、約束は二人だけのものになってしまった。
ルーファウスと、自分との、約束。
「……」
もし――――ルーファウスが此処にいなかったら、自分はホッとするかもしれない。
レノはふとそんな事を思った。
だってそうだ、そうすればルーファウスは自分に落胆して、全て終わりになるかもしれない。
ル-ファウスに落胆されれば、悲しいけれど少しは踏ん切りが付く。そうすればきっと、楽になれるだろう。
しかしレノには分かっていた、ルーファウスは305号室にいるという事が。
帰りもせず、絶対にそこに居る。
そういう確信がある。
しかしその確信を持てるようになってしまった自分自身が悲しいと思うし、このままではもっともっと自分は辛くなるのだろうとそう思う。
ルーファウスに会えば、きっと自分はルーファウスを抱くだろう。そしてルーファウスもそれを望んでしまうだろう。
そうして現状打破できないまま、心は――――。
コン、コン。
305と書かれたドアを、ノックする。
しばらく静寂が続いたが、それはやがて破られた。
『――――レノ…?』
そう、微かな声が響いて。
心は――――後戻りができなくなる。
「…そう、俺だよ」
滴る水滴をそのままにドアの前で立ち尽くしていたレノは、聞こえてきた声に静かにそう返した。
すると部屋の中でぱたぱたと小走りになる足音が聞こえ、それが止んだ瞬間にドアがキイ、と開かれる。
開いたドアの向こうには、1022号室で見るのと同じルーファウスの表情があった。あの、少し寂しそうにした表情が。
「……もう、来ないかと思ってた…」
寂しさに驚きを混ぜ合わせたような顔つきになったルーファウスは、まるでうわ言を口にするかのような曖昧な口の動きでもってそんな言葉を放つ。
それを耳にした瞬間、レノはルーファウスをぐっと引き寄せ、その体を抱き締めた。
「ごめん、遅れちゃった」
レノは小さくそう言うと、抱きしめる腕に力を込める。
ぴったりとくっ付いた体はルーファウスまでをも濡らし、それは俄かルーファウスに冷たさを感じさせたが、それでもレノの腕が振りほどかれることはない。
むしろ二人の腕は、お互いの存在を確かめ合うかのようにギュッと絡まり合っていた。
「ごめん」
二度目にレノが謝った時、ルーファウスの目がそっと閉じられる。
視覚を閉ざすと、途端に敏感になった臭覚がルーファウスにある匂いを運んだ。
その匂いは、自然とルーファウスを微笑ませていく。
甘ったるい匂いと――――雨の匂い。
雨の匂いがする。
あの日と同じように、雨が降っているから。
そして、愛の香りがする。
この人は、愛をくれるから。
こんな冷たい雨の中で、こんなにも暖かい―――――愛を。