65:黒幕は誰だ?
走り続けたせいで息がぜえはあと切れていた。
それでも敵を追い詰めることが出来れば、息なんて絶えても良い。
そう思いながら走り続けて中庭にまで身を躍らすと、その広大な庭の隅でようやくレノはかの男を捕らえることに成功した。
金髪の男が地面から張り出た小さな石に躓いたのは実に幸運だったろう、恐らくそれがなければ今でもまだ追い続けていたに違いない。
レノの目の前でバランスを崩した金髪は、ドタン、と派手な音を立てながら顔面から地面に落下した。
その機を逃さず、レノは上から覆いかぶさるように乗りかかり、金髪の腕を羽交い絞めにして地面に押し付ける。
「へっ…やっと捕まえたぜ」
伝う汗をそのままに、レノは苦しい呼吸の中で笑いながら言う。
「あーあ、どうしてくれんだよ。ネズミ一匹捕まえんのにこんだけの代償…少しはこっちの身にもなれよってな…!」
「ぐ、あぁっ!!」
グイ、と腕を捻ると、金髪は顔を歪めて呻き声を上げた。顔面から地面に落ちたせいか、自慢の美形も今や血まみれである。それを見てレノは、男で良かったな、と皮肉を口にした。
―――――しかし。
「は…は、ははは…っ!あははははっ!」
どう考えても窮地だというのに、金髪は突如として気が狂れたように笑い出す。それは諦めの笑いなどではなくもっと下卑た笑いで、レノを不快にするに十分なものだった。
「―――オイ。何だよ、その態度は」
「うぎゃああ!!」
再度グイ、と捻られた腕に、金髪は痛々しく絶叫する。歪み極まった表情は既に正常ではないと一目で分かるほどだ。
そう、正常ではない。
それはレノの目にも歴然なことで、この金髪は当初からどこか健常ではない雰囲気を纏っていたものである。
そもそも会場のテーブルに上る時点でおかしいし、ナイフやフォークを投げつけるというのもあまりにも陳腐な行動だろう。
いわば、“軽すぎる”のだ。
こんな軽い男が、どうして神羅という大企業を相手取って悪事を働こうと思ったのだか疑問で仕方ない。ルーファウスを狙うなど、身の程知らずも良い所である。
そんな事を考えていたレノに対し、金髪は非常に不穏極まりない笑みを浮かべた。
「はは…おい、赤髪…てめえ、お手柄気分かよ?あぁ?…お前みたいの、何て言うか知ってるか?教えてやるよ…てめえみたいな奴はよ、“御目出度い奴”ってんだよ!」
「な…んだと!」
カッ、と怒りが湧き上がり、レノはガツンと金髪を鷲掴むと思い切りその頭を地面に打ち付ける。
ゴン、という鈍い音がして金髪が再度呻き声を漏らしたが、どうにも怒りが収まらずにレノはその顔を思い切り殴りつけた。赤く晴れ上がる顔が、醜く歪む。
「お前な、自分の状況ってもんを考えろよ。殺されても仕方ない状況だってことくらいは、幾ら悪いオツムでも分かるだろーが」
「あっそう、じゃあ殺せば?」
「は…?」
その軽い切り替えしに、レノは思わず唖然とする。
殺せば?、とは一体何だ。
こんな状況にも拘らず金髪はヘラヘラと笑うと、馬鹿にしたように舌をベロベロと出したりする。それを見てレノは目を細めると、
「お前…薬やってんだろ」
そう冷静に口にした。
先ほどから言動がおかしいとは思っていたが、この奇妙な感じはそれに違いない。そのレノの指摘に間違いは無かった。
「はははっ、そうだよ、薬やってんのよ俺。最高の薬だぜえ。赤髪もやってみりゃ良いじゃん、そういうの好きだろ?あ?」
「一緒にすんな」
「あれ、怒っちゃった?ははは、ははっ、面白れえ。そういやアンタさあ、あの副社長とヤってんだろ?女みたいによがんのか?あんな澄ました顔しててもベットん中じゃ淫乱だったりしてな、はははっ。俺にもヤらせろよ、副社長」
「ふざけんな!」
ゴン、と鈍い音がもう一度響く。
がしかし、今度は金髪の顔ではない、地面である。
レノは抑えがたい怒りをその腕の震えに変えながら、思い切り殴った地面をキリキリと押しやった。
本当はその首を絞めて殺してやりたかったが、こんな男でも人間である、それではただの殺生になってしまう。だから、ギリギリの気持ちでそれを押さえ込むしか出来ない。
「――――お前と話してると反吐が出る。さっさと言えよ、目的は何だ!?」
そのレノの真剣な具合に金髪はうへえ、とまるで緊張感の無い声を出すと、知るかよそんなの、と理解できない言葉を続けた。
「だーかーらー、さっき言っただろ?殺したいなら殺せば?まあそんな事してる内に副社長はしくしく泣くことになるんじゃねえの。ははは、ははっ!」
「な…」
―――――何だって?
ゾワリ、と一瞬にして全身が総毛立つ。
まさか、そう思った瞬間に心音が恐ろしいほどに早まり、レノは急激に噴出した汗をぽとりと垂らした。
「お前は、まさか…」
こいつは、こいつは―――――、
金髪の男は―――――――“囮”…!!
そうだ、それに違いない。そうじゃなければ辻褄が合わない。
ツォンはそれに行き着いて、突然の暗転で騒然となった会場の中、先ほどまで話していたVIPの男の腕をしっかりと掴んだ。
慌てふためいているVIPの男は、それでも受け取った例の薬を大事そうに抱きしめており、いかにそれへの執着が強いかを露にしている。
「おい、おい!」
最早青年実業家の振りをしている余裕もなく、ツォンは地に戻ってVIPの男にそう呼びかけた。
VIPの男は気が動転しているらしくそんなツォンの豹変振りにはまるで何も疑問を持たず、ただ諤々と震えながら「何だ」と取り敢えずの返答をする。
「聞きたいことがある。元締めというのは誰だ!?」
「え、え?」
「だから!元締めが誰かと聞いてるんだ!その薬の!」
「あ、あ、こ、これは…っ」
慌てふためいた男は、うっかり手から滑り落ちそうになった薬を大急ぎで手で包むと、半ば泣きそうな顔をしながらこう言った。
「い、医者だよ。医学会お墨付きの、高名な、す、凄腕の…」
―――――医者…!
ツォンはその言葉に目を見開くと、少し考えた後にVIPの男から手を離した。
そして、雪崩れ込んで足場の悪い会場内を何とか前進し、髪を振り乱しながらやっとのことで会場の外へと出る。
いつの間にか消灯していた廊下は真っ暗で、やはり視界としては良くは無い。
「リスト…!」
ツォンは間髪入れずに玄関に急ぐと、そこに置かれたままのリストを荒く手にした。
リストの内容は数時間前に見たものと変わりなく、特に誰がどのような役職であるかというような明記は無い。
役には立たないか…!
そう思ってすぐさまそのリストを手放すと、その瞬間にふっと視界に入った影に唇をかみ締めた。
それはリストの管理をしていた例の男で、彼は今や床の上で冷たくへばっている。死んではいないだろうが、襲われたのは確実だろう。見ると、玄関のドアノブが手荒く破壊されている。
恐らく、あの金髪の男だ。ツォンはそう思った。
あの金髪の男は、会場に忍び込むというようなことはせず、この玄関から堂々と入り込んだのだろう。その際に邪魔だったゲスト管理の男を襲い、ドアノブを破壊した。
普通、悪事を働こうとするならばこのような派手なことはしない。そんなことをすればすぐに気づかれてしまうし、このようなVIP向けパーティなら警備が飛んでくることは目に見えているからだ。
それでも金髪の男が人目を憚らずそのような派手なやり方、更にはあのようなパフォーマンスをしたのは、彼がそれを“恐れていなかったから”だろう。
どうしても成功させたい悪事ならば、絶対的にそういったことを恐れる。しかし彼は恐れなかった。
何故彼がそれを恐れなかったかといえば、彼が“恐れなくても良い立場にあったから”だろう。
彼がそのようなパフォーマンスをして身を囚われても、今回の悪事には影響が無い状況…いや、むしろその反対だろうか。
派手なパフォーマンスをするからこそ、悪事に影響が無くなる状況。
つまり彼は―――――悪事を上手く運ぶ為に利用された、“囮”。
「そうだ、つまり…」
彼がそのパフォーマンスによって場を混乱に陥れる間に、悪事は人の目を潜って着々と進行しているということである。
これほどの混乱が起きてしまえば、誰も注意を払わない。むしろ全てが全て疑心暗鬼となり、悪党にとっては好都合な状況だろう。
「ルーファウス様はどこなんだ…!?」
レノは先ほどあの金髪の男に飛び掛っていった。今はもうどこにいるのか姿が見えないが、それでもレノのことである、今でもその男に向けて進んでいるに違いない。
レノの動きが分からないのは少々難だが、最大の問題は、レノが金髪を追っているとすればルーファウスの身は自由になっているという部分である。
ツォンは踵を返すと、会場のドアを開き、中を見遣った。
「この中だとしたら…!」
駄目だ、この中から探し出すのはあまりにも難しい。
そう思い、知らず唇をかみ締める。
「…だが相手とて状況は同じはずだ。考えろ…考えろ!相手は高名な医者で…」
ツォンは混乱する会場を目にしながら必死に考える。
こんなパフォーマンスをして人目を掻い潜ってまで遂げようとする悪事とは一体何なのか。何故ルーファウスが狙われたのか。
―――――あの薬は…何が関係ある!?
“い、医者だよ。医学会お墨付きの、高名な、す、凄腕の…”
そんな高名な医者が何故?
何故、そんな危険な薬を広めている?
“今日の来賓の中にも随分沢山いるよ。この薬が好物だってVIPがね”
医者はVIPと繋がりのある人物?
しかしマリアの飲んでいたあの薬は?
あれは確か―――、
“あの薬…下の兄が教えてくれたの”
そう、あれは医者からのものではない。
“一部のルートでしか取り扱いがされていないんだよ”
その上その薬のルートは狭い。
医者は恐らくその地位を利用している。
そして希少価値の薬を流しているのだ。
そう、VIPは金を湯水のように出すから。
でも…。
“あの人、CLUB ROSEにも出入りしてて…何度も持ってきたわ”
じゃあ何故VIPではないマリアの元にそれは運ばれたのか?
“でもね、それは私が催促してたの”
マリアの催促で希少価値の薬を持ち出せるのはおかしい。
しかし実際、彼女の兄はそれをしていたのだ。
「兄…?」
ツォンはふと、そのキーワードに行き当たる。
そういえば、そうだ。確かマリアは言っていた。彼女には兄がいて、その兄は―――――。
“私には、兄が二人いるの”
「二人…」
“複雑な兄妹関係なんだ”
何故複雑かといえば、一人は母親の再婚相手の連れ子で、もう一人は再婚相手の元妻が浮気の末に産んだ子だったからである。
マリアは下の兄と戯れながらも、本当は上の兄を好いていたのだと言っていた。
何故なら、そう。上の兄というのは、彼女の母親が愛した男同様にエリートだったから。
“義理の父親は本当にエリートだったんだ。頭の良いお医者さんなの”
「い、医者―――――」
マリアの義理の父親は、医者だ。
そしてその上の兄というのは…。
“上の兄はその血を継いでて、私はそれに憧れてて―――”
エリート好きなんだろうと言われたことに対して、あの日マリアは大きな告白をツォンにしたものである。
そのエリートとは義理の兄のことを指しているのであり、その兄というのは義理の父の血を継いでいるという。
それは―――――つまり。
「そう…か、そうだったのか…。だからあの薬は―――――」
希少価値であり、VIPが大金を出して密かに好むあの薬が、何故一介の女性の手中にあったのか。その答えはこれだったのである。
マリアは下の兄からそれを受け取っていた、そしてその下の兄というのは恐らく、上の兄という存在と繋がっていたのだろう。
マリアがどうしようもないと表現した下の兄に比べ、上の兄はエリートである、そんなエリートの兄から見れば己の義弟や義妹にその希少価値の薬を流すなどというのは本来ならばもっての外であろう。
何しろ金にもならぬし、下手をすれば命を失ってもおかしくはないのだから。
それでも、その薬は狭い兄弟間を流通していたのだ。
それの意味するところは、つまり―――――裏に何かあるということだ。
「正統な招待客だったというわけか…」
どうやってこのパーティに侵入するつもりかと思っていたものだが、まさかこんなことだったとは。
勿論実際のところがどうなっているかなどツォンには分からないが、しかし医者であれば正式にこのパーティに招待されている可能性はある。
とにかく、ルーファウスを探し出さねば―――――。
ツォンは目前に広がる会場の光景に眉を潜めながらも、とにかくそれをしなければ始まらないと、重すぎる一歩を踏み出した。
…が、しかし。
パアアン―――――!
「!?」
ふと耳に入った銃声に、ツォンはピタリと動きを止めた。
騒然とする会場はうるさく、銃声さえもクリアな音では聞こえない。だからきっと、VIP達は気づかなかっただろう。
しかしツォンの耳には、はっきりとそれが聞こえていた。
あの音は、銃声は…。
「上―――!」