Seventh bridge -すてられたものがたり-
***
大脱走劇からどれくらい経っただろうか。
今のところ巧い具合に逃げきれているから問題ないものの、今後ずっとこんなふうに逃走劇を続けるとなると気が狂いそうになる。
あの大脱走の後、各地バラバラに散った仲間たちは一度だけある地点で合流を果たした。そこで、ある物体が1粒づつ配給されたのである。それはとても小さな黒い粒で、不思議な匂いを放っていた。
“もし捕まりそうになったら、その時はこれを飲め”
その一言を聞き、その一粒を受け取ったとき、レノはその黒い粒がどういった効果を齎すものなのか、それを瞬時に理解したものである。
こんなのは最早、常套手段だ。
何か秘密を持っているわけでもないが、それでも義勇のためにそれを行おうというのである。捕まり、処刑されるくらいならば、自ら命を絶とうと。
“生きる限り…俺達は戦い続ける…復讐するんだ、アイツラに……”
プリズンから逃がしたあの巨体の男が、くりんとした目に光を灯してそう口にしたことを、レノは忘れなかった。そしてその言葉が嬉しかった。
その顔を見て、笑う。
頑張れよ、と。
1日24時間。
1分1秒が、恐怖との戦い。
最初はそのくらいドキドキしながら過ごしてたのに、いつの間にかそんなスリル感も薄れてきてた。
それは俺が安全圏ってトコに居たからだろう。
といっても、絶対に安全だっていう保障があるわけじゃなくて、単にそれらしい動きも無いし素振りもないしニュースすら流れてないから、単に俺が安全だろって太鼓判を押しただけの話。
今のところ、我がマイホームは今にもぶっ壊れそうなプレハブ倉庫。しかもボロボロカスタマイズ。嵐でもきたら一発KOってカンジの年季入りだ。
そのプレハブを出ると、俺の視界にはものすごい広い畑が広がる。180度+αしか見えない俺の目は少し物足りない。だからぐるりと体を一回し。そうすると、背後にはバカ高い崖があって、その崖を囲むようにだだっ広い畑が連なってた。
逃げて、逃げて、逃げて…で、最終的に選んだ場所がココ。
その割には結構良いトコに来れたんじゃないかって、俺は自画自賛。
此処には、今迄の俺が見ていたものはなーんにも無い。それが良い。寂しいけど、でもきっとそれが良いんだって俺は思う。
「ルード、ルードや」
「はいはい、どした?」
俺はそう呼ばれて背後を振り返った。そこには、腰が45度に曲がったジッチャンがいる。見事な白髪で、コンコンって土に杖をついて歩いてる。俺はジッチャンを見てると、いつだったか子供だましに出されたナゾナゾを思い出すんだよ。
最初は四本足、次は二本足、最後は三本足になるもの、なーんだ?
これこれ、このナゾナゾ。
そのナゾナゾ通り、ジッチャンはもう一つの足をうまい具合に使って歩いてた。
「ちょっと悪いがね、どうも家の中で何か落としちまったみたいなんだよ。悪いけど見てもらえないかね?」
「リョーカイ」
俺は軽く手を上げて、ジッチャンの家にダッシュ。
因みにジッチャンの家はマイホームの隣にある。っていうかアレだ、マイホームはジッチャンの財産の一部ってわけ。俺はそこを借りて身を潜めて生活することになったわけだけど、ジッチャンは俺の顔を見てもなんとも思ってないみたいだった。まあ驚くべきことにここにはTVがナイ。不幸中の幸い、ってヤツ。だけどまあ、実はそれ以前の問題ってのがある。
ジッチャン、目が見えないんだ。
だから俺の声しか分からない。
しかも俺ときたらいきなりやってきて、ちょっとそこのプレハブ貸してくんないかなって直談判。ハッキリ言って信用も何もあったもんじゃない。
それなのにジッチャンは俺の願いを即OKしてくれた。
悪く言えばさ、ジッチャンは目が見えないんだし、俺は犯罪者だってだけで体もぴんぴんしてるんだし、これって最低最悪悪巧みできる環境なんだよな。ま、勿論俺はそんなことするつもりなんて無いけど。米粒ほどにもな。
「んー特に異常ナシっと。で…あ、アレか?」
ジッチャン宅を捜索する俺。
どうやら古びたデスクの上に山積になってる本が、少しばっかり落ちたらしい。山が崩れてる。
俺はソイツを拾って、元のように山を作った。随分古い本で、すっかり埃が被ってる。ジッチャンの目がまだ見える頃に積まれたんだろう、ってことは随分と長い間このベットでおやすみしてたってわけだ。
「…へえ」
俺はまじまじ本を見てみる。まあこれはちょっとした興味本位ってヤツ?
背表紙には、幸福についての論なんて書かれてて。どっかで聞いたことある。確か、どっかの哲学者か何かが書いた本だったと思うけど、そんなのイチイチ覚えてない。
幸福についての論、ね。
例えばさ、本を読んでさ、そこにこうこうこうしたら幸せですって書いてあったとする。だからその通りに実行してみたとする。だけどさ、なあ、それで本当に幸せになれるのか?
俺の頭の中にはいつも疑問がグルグル。
そういえば、タークスの頃、あのハゲの相棒は意外と読書家だった。ナニソレ?っていうような本を黙々と読んでて、そんなの読んで何が楽しいんだ?って聞いたらハゲはこう答えた。
『別に楽しくは無い。ただ答えを知りたいんだ』
へえ、答え?
何に対しての?
『不安なことや、疑問なことに対しての、だ』
なあ、お前は幸せになったか、ルード?
不安はなくなったのかよ。
疑問はなくなったのかよ。
俺は、100%不安で不満で疑問ばっかりだけど。
俺の不安や不満や疑問は、確かに俺のせいでもあるのかもしれない。例えば今こうして逃げてること、それも不安といっちゃ不安だ。だけど、一番最初に不満とか不安とか疑問を抱いたのは、俺の力じゃどうにもならないところで何かが動いてたからだ。
昇進することが幸せだって決め付けてた会社も、高給取りでぐうたらしてれば最高だと思ってる同僚も、俺には許せなかったけど、俺の力じゃどうにもならないところで動いてた。
俺は歯車の一部でしかなくって、歯車そのものを動かしてるのはいつだってどっかのお偉いさんで、俺の手なんかじゃどうにもならなかった。
あの頃のルードみたいに本を開いたら、俺の力でどうにかなったのか?
俺の、俺に対する答えは見つかったのか?
あの頃の俺みたいに、格好良くいられたのか?
俺は考える。ジッチャンの本を手にしながら。
「おい、ルードや。どうだ?何が落ちてた?」
「…あ。えっと、本が落ちてた!幸福うんぬんって本。元戻しといたから」
「そうか、悪かったな」
「いえいえ、どういたしまして」
突然やってきたジッチャンに、俺は内心びっくりしながらそう答える。ジッチャンは人が良さそうな顔をしてほんわりと笑った。絶対に人を騙せない顔だ。
「じゃ、また何かあったら呼んでくれよ。俺、外にいるから」
「ああ、ありがとうな。ルード」
「ん」
外に出ると、畑と空が清清しいほどに広がってる。
俺はそれを見ながら、何だかセンチメンタルに陥ってた。らしくないよな、こんなの。だけどこういうのは何故かいつも、TVの緊急特番みたいに予告もしないでやってくる。
「…ルード、か。元気かな、あいつ」
ジッチャンは俺のことをルードって呼んでる。何故か?そりゃ簡単だ、俺がルードって名前を名乗ったから。最初はただ単に身元を隠すためにそう名乗っただけだった。けど最近は、ジッチャンにそう呼ばれると何かこうセンチメンタルになる。
どうしてアイツの名前を名乗ったんだろうな、俺?
正直、ルードの名前しか浮かばなかった。
これだけ生きてりゃそれなりに色んな名前に出会ってきてるはずなのに、あの時、緊張MAXの時みたいに頭が真っ白になってルードの名前を口にしてたんだ。
俺はルードの名前で呼ばれてセンチメンタルになったりするけど、それと同時に何だか少し嬉しい気分にもなってる。不思議とその名前を口にされると、近くにアイツがいるような気分になるんだ。変な感じだけど。
俺はふいに携帯を取り出した。
メールを打つ。そんで、送信。
「そういやアイツ、俺のこと絶対捕まえるとか言ってたよな。ったく、やれるもんならやってみろってーの」
俺は一人笑った。
もしアイツがさ、俺を探し出して捕まえたら、そん時は俺も観念するんだろうな。きっとそうなんだろうって思う。
ま、そんな日が来たとしたって俺はそれを不幸だなんて思わない。俺をしょっぴくのが警察機構の偉そうなオッサンとかエリート野郎とかだったら、やっぱりそれは不幸だと思う。けどそれがルードだったら、俺はそれを奇跡だと思う。
お前ならな、ルード。
「…さて、と。適当に体でも動かすか」
身を潜めなくちゃいけない俺は、基本はほぼプレハブにイン。だけど、さすがにそれだけじゃ腐っちまう。だから俺は、定期的にジッチャンの仕事を手伝うことにしてた。
別に強要されたわけじゃないし、頼まれたわけでもない。
ただ、せめてものっていう考えがないわけじゃないし、体を動かしたかったから。ただそれだけ。
やる事は単純明快だった。
畑仕事をやれっていわれたらさすがに一発マスターってわけにはいかないけど、畑は他の人が専門に仕事をするようになってるらしい。だから俺は用ナシ。俺がやるのは、井戸水汲みと洗濯とジッチャンの話し相手。今時井戸水なんて珍しいけど、そっちのほうが美味しいからっていう理由らしい。ジッチャンは美飲家だ。
このだだっ広い土地は、全てジッチャンのもんらしい。
多分、昔からの地主なんだろう。これだけの土地があれば財産も相当なもんなのかもしれないけど、ジッチャン自身は質素な生活をしてる。家族は不明。畑仕事は家族外の人間が雇われてやってるだけで、後はクレイっていう世話役の女の人が一人いるだけ。その世話役のクレイも午後からしか来ない。
俺はなるべく、ジッチャン以外の人間とは関わらないようにしてる。だってホラ、他の奴らは顔を見た瞬間にピンと来ないとも限らない。なるべく外見は変えたつもりだけど、用心に越したことは無い。
本当ならクレイも関わりたくないけど、さすがにこの人はジッチャンの世話役だけあって、関わらないわけにはいかなかった。
プレハブに帰ると、裏手にある井戸に水を汲み上げに行く。
これが結構な力仕事で、久々に体力使ってますってカンジがする。俺にはそれが嬉しい。少なくとも机上の空論よかマシだ。
で、それをジッチャンの家に貯水して。
大体いつもこうしてる辺りで、例の世話役のクレイが登場するんだ。
「ルードさん、こんにちは」
「あ、ども」
ホラ来た。
いつもと全く一緒の登場。
お世辞にも綺麗とはいえない質素な服を着て、特に飾らない様子でやってくる。女に歳を聞くのは失礼とかいうけど、クレイの場合は聞くまでも無く三十路は超えてる感じだ。焼き上がりのパンみたいにふっくらした頬をしてる。
「今日は天気が良いですね。井戸、ありがとうございます」
「いや別に。大したことじゃないし」
それに、クレイがやるくらいなら俺の方が適任だろ。
そう思いながらも、俺はクレイの作業を目で追っていく。彼女の仕事は大体いつも掃除から始まる。外を掃いて、中を履いて。それでもジッチャンが嫌がるんだか、あのデスクの上だけは掃除をしない。だからあそこは埃を被ってる。
「なあ、クレイはいつからジッチャンの世話役してんだっけ?」
「ここに来られてからずっとです」
俺はクレイの隣で、昔ながらの箒を手にしてサッサッと地面の葉っぱを払った。これでも一応手伝ってるつもり。何もしないで話しかけてるだけってのも悪いし、でも俺は聞きたいことがあったし。
俺は、なるべく素っ気無く聞いた。
「ジッチャンってさ、昔は何やってたんだろ?」
「…さあ…詳しくは私も知りません。もしかしたら、何かの団体か何かに所属してたとかじゃないですかね」
「団体?何の?」
「それは分かりません。もしかしたらここら辺の地域の市民団体とか…」
ふーん、市民団体。まあ、無いとも言えないか。
俺の脳裏を掠めるのは、デスクの上に積まれてる本だ。そう、俺がさっき拾った本の山。そんなに詳しく見てないけど、あの本の山は多分、普通じゃない。
こんなふうに畑が広がってる長閑なところに、あんな小難しい本がいっぱい。
しかもそれはずっと近くで世話しているクレイでさえ触っちゃいけないようなシロモノなんだ。
目が不自由なジッチャンが、埃まみれになっても尚あの本を大切にする理由。それって何だろう。俺は何だかそれが気になってた。きっと大事なものなんだろうなってことは分かってて、だからこそ軽くは聞けないなって思ってて。
「ルードさんは、おじさんのことを気にかけてくれてるんですね。ふふ、私から見ればルードさんも不思議でいっぱいですよ」
「え?あーそっか。だよな」
身元不明のルード君。確かにクレイの言う通りだ。
一体お前はどこの誰で仕事は何をしてるのか。そんなことを洗い浚い聞かれたら、俺はたちまち脱走劇Vol.2を敢行しなきゃならない。
そんなふうに根掘り葉掘り聞いてこないクレイに、俺は感謝しなきゃいけないんだろう。勿論、ジッチャンにも最大の感謝を。
「でも、そういうことも既に暗黙の了解なんですよ」
「へ?」
「この辺りでは、お互いをあまり深く掘り下げない風潮があるんです。でもそれは信頼していないというわけではなくて…何と言うか、逆に信頼しているんですよね、今を」
「そんな風潮があんのか…」
俺にとっては有難いとしか言いようのない風潮だけど、面と向かってそう言われると、何だか妙に不思議な感じだった。
都会の殺伐さには慣れてた。
だけど都会は、排他的でありながらも自分以外の誰かの情報をキャッチすることが当然の世界だった。むしろ、そうすることによって何かの篩にかけてるのかもしれない。
それなのに此処は、その篩すらない。
いや、その前にそういう考え方自体が無いんだろう。
「“いつか貴方との思い出は消えていくわ”…“だから今夜このグラスに閉じ込めるの“…」
ふと俺の耳にクレイの歌声が聞こえてきた。
それは、いつだったか大ヒットした懐メロジャズ。
あの日、ルードと呑んだ店でかかってたっけ。懐かしい曲。誰もが知ってるはずなのに、誰もが思い出そうとしない曲。
「…懐かしいな、それ」
「ええ、大ヒット曲でしたよね。私も好きでした。この曲を歌ってた歌手、引退後は田舎で農業をやっていたんだそうです」
ああ、そういえばそうだった。
あの日の俺が考えて考えて思い出したことを、クレイはさくっと口にする。だけど、その次の言葉は初耳だった。
見逃してきたエンドロール後のサービスショットを、今になって発見したみたいな、そんな感覚。
「その田舎というのは、実はこの村のことなんですよ」
「は?此処?」
「ええ、そうなんです。彼女はずっとこの村で過ごして、数年前に亡くなったんです」
―――――死んだ。
俺の頭の中に、その言葉が強烈に焼きついた。
あの歌手が一体どのくらいの年齢だとかどんな性格だとか、そういうことは一切知らないけど、それでも俺にとってそれは衝撃的な言葉だった。
普通、親しくも無い人間の死なんてどうでも良いコトだろう。
毎日この星の上では何人もの人が死んでて、俺たちはいちいちその死に対して悼むなんてことはない。それは出来ないことだし、仮に出来たとしても誰もしないだろう。それは少し視界を狭めて、同じ地域、同じ町、同じ会社、ってふうに縮めていっても同じことで、親しくなれければ驚き程度で終わってしまうもんだ。TVでも見るみたいに。
元は有名な歌手だったはずの彼女の死。
それは、クレイ曰くニュースでは報じられなかったらしい。
「悲しいことですね。でも彼女の最期は、幸せそうでした」
クレイが言った言葉に、俺は反論なんて一切無かった。
ただ、俺は思ってた。
いつかは俺もそうして死んでいくんだろう、って。
そんな話をしていたせいか、クレイが突然レコードを聞こうと言い出した。いかにも時代錯誤のグルグル回るデカイやつ、蓄音機だ。
そんなシロモノ、ガキの頃から触れたことがなかった。見たことはあったけど、そういうのは体外アンティークショップとかマニアな連中が楽しむ場所にしか置いてない。場違いなジュークボックスの方がまだ生存率が高い。
「おじさんの家にあるんですよ。お茶をいれますから、皆で聞きましょう」
何だか変な感じだった。
何だよこれ?
俺は脱走中の犯罪者なのに、こんな長閑なところでお茶しながら団欒まで楽しんでんだ。莫大な緊張感の中に生まれた僅かな安全地帯に、俺は思わず笑った。
たまには良いかもな、こんな不思議な団欒もさ。
俺はレノじゃなくって“ルード”だけど、それも丁度良かったかもしれない。まるであの相棒も傍にいるような気分になるから、これはきっと四人の団欒なんだ。
クレイが用意した茶を啜る。
そんな俺の耳に、あの懐かしいジャズが流れ込んできた。
ねえ旅立ちの時が来たわ これは最後の晩餐ね
今夜だけは素直に言わせて 貴方が好きなのだと
幸せはあの丘の向こう側にあるの
そこに辿り着く頃 私は大切な場所を失うでしょう
いつか貴方との思い出は消えていくわ
だから今夜このグラスに閉じ込めるの 大切な言葉たちを
『私は貴方を愛しているわ』
貴方がいつか私を思い出したらその時はこう言って
『彼女はきっと幸せに暮らしてる、幸せに暮らしてる』
悲しいけれどサヨナラ 私が愛した大切な貴方
兵士よ、お前は今幸せか?
YESと?
それともNOと?
兵士よ、お前の大切な場所はどこだ?
―――――あの空の下に決まってんだろうが。
DATE:05/25
FROM:レノ
TITLE:無題
– – – – – – – – – – – – – – – – – – – – –
なあ、お前元気か?
そんで、幸せか?
– – – – – – – – – END – – – – – – – – –
DATE:05/25
FROM:ルード
TITLE:RE:
– – – – – – – – – – – – – – – – – – – – –
元気じゃない。
最近俺は何だかお前に似てきた。
幸せかどうかなんて聞くな。
その答えはお前と一緒だろ?
– – – – – – – – – END – – – – – – – – –