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■SERIOUS●SHORT
私はお前の為に全てを捨てられるのだろうか…。ルーファウスが失った理想郷とは。
理想郷:ツォン×ルーファウス
指先で、そっとなぞる輪郭線。
あの頃より少し細くなったような気がする。
黒い瞳の奥に宿る光は、少し鈍くなったような気がする。
変わらないものはきっとあるはずなのに、それでもそこには何か、変わってしまったものがあるような気がした。
「…逃げようか」
答えは分かっていたが、それでもルーファウスはそう口に出して聞いてみた。
今見上げているツォンの顔が、どこか歪んでいくような気がする。
そしてその口元が僅か揺れて、言葉を告げた。
「今の貴方には、できるはずない」
とても辛辣な言葉ではあったが、ルーファウスがその言葉に嫌な反応を返すことは無い。もう既に分かっていたのだ、そう言われることくらい。
「…そうだな」
だから、正直にそう頷いてみる。
確かにそうだ。自分は捨てられるはずないのだ、今という状況を。全ての責任が、今自分にのしかかっているのだから。
ちょっとしたこの時間に期待をするのは、馬鹿げたことだと思う。それでも頼ってしまうのは、過去にできなかったある判断の為。
まだ自由だった頃に、できなかった判断。
それが今、こうして結果を生み出す。
その結果とは、もしかしたら一生のものとして手に入るかもしれなかった愛情を、暫時的なものに変えてしまったということである。
それは今さら後悔しても仕方ないことだけれど、ずっと胸の中でつかえていた。
「そういえば、前はお前がこの言葉を言ったんだったな」
俯いて笑うと、そうポツリと呟く。
“逃げましょうか”
そう言ったのはツォンだった。その言葉をツォンが口に出すことは、ひどく勇気のいったことだったに違いない。
それでも、あの頃―――――それに頷くことなどできなくて。
今ならできるかもしれないと思っても、もうそれは、遅い。
ツォンという人間と僅かな愛情を分かち合う時間は、だからルーファウスを落胆させていた。とても嬉しいと思うのに、その反面、とても落ち込む。
あと一秒でも側にいようと思っても、それもまた落胆の要因にしかならないのだ。
今こうして抱きしめ合っていたとしても―――――数秒後には他人に戻ってしまう。
期間限定の恋人。
いや、それとも単なる慰め合いなのか。
けれど、本当に悲しいのはそういう事じゃない。
ツォンと暫時的な関係でしかないことは悲しいことでもあったが、それよりもっと悲しいのは自分自身だろうと思う。
そう、今さっきツォンが言ったように、自分はきっと“できない”から。
私は、ツォンの為に全てを捨てることは、できない―――――。
愛情が本物であったとしても、それができないのだ。
本当はそれが、一番、悲しかった。
それはある冬の話。
同年代の青年が詰め込むことのない知識を膨大に脳内に押し込み、ルーファウスが少々ばてていた。
春から就任という話だったので、自由にできる最後の時間といってもいい。その時にルーファウスは、最後だからと色んな場所に息抜きといって出かけていた。
しかし何処にいっても春からの自分の姿が付きまとう。これでは休む意味すらない。
そんなルーファウスの最後の自由時間に、護衛としてツォンがついてきていた。
ツォンとは昔から仲が良い。
仲が良いというのは語弊があるかもしれないが、ルーファウスはそう思っていた。
友達のような存在であるツォンは、一部の人間からすれば少し厳しい面もあったが、大体はルーファウスの話を良く聞いてくれる。
だから、そんなツォンが好きだった。
神羅の人間はそれなりに話をしてくれはするが、基本的に勤務時間内に会うために、それほど深く耳を傾けてくれない。その他の人間といえば、家の使用人だとかになってしまう。
彼らは確かに優しいが、それはあくまで主人に対しての態度である。同じくらいの歳の人間はといえば、ツォン以外、存在していなかった。
何せ、大体の住宅密集地からプレジデント宅は離れていたから。
「春から…何だか自由が無くなるみたいな気分だ」
宿泊している部屋の窓辺で、無意識にルーファウスが呟く。
午前中は色々と見て回って、さて午後からは場所を移そうか、というその合間の時間。
基本的に人にはついてきて欲しくないといったルーファウスの意見を重視して、プレジデントは唯一ツォンだけを護衛につけた。
本当ならそれなりに護衛を仕事にする人間がいたが、それではルーファウスが嫌がるのは目に見えていたから。
ツォンなら嫌がらないだろう、そう思って二人だけの旅となったのだ。
何をするでもなく、ただルーファウスに付き添っていたツォンは、時折見せるルーファウスの憂鬱な顔に、なるべく厳しい顔を向けていた。
プレジデント神羅がルーファウスに護衛を幾人もつけようとしたその理由は、正にそれだった。
入社を目前にしているルーファウスが何かしでかさないかを見張れ、それと共にそれなりの自覚を養わせろ、という具合である。
前もってそれを聞いていたツォンは、それなりにその言葉を実行していたが、やはりそれも時々崩れるときがある。
神羅カンパニーという以上にルーファウスには頼られているからか、どうしても同情心が抜けないのだろう。
「大丈夫ですよ。多忙の中にも休日はありますし」
そう口にしたツォンだったが、本当は休日などあって無いようなものだ。心で苦笑いを漏らしながら、ツォンは慰めるように笑った。
「違う、そういう意味じゃない。会社に入ったら、いつも見張られてるみたいな生活になりそうじゃないか」
それが嫌だ、そう言いながらルーファウスは大きなベットの脇に力なく座る。
もう何回か同じ会話をしていたが、それでもまだ足りない気がしてしまうのは、多分不安が抜けないせいだろう。その不安を前にして息抜きなんて、本当はできるものじゃないのかもしれない。
だから、この息抜きの旅の実際の意味は、愚痴の解放といったところだった。
「ツォンは…嫌になったことは無いのか?」
「私が?」
問われて、ツォンはルーファウスの隣に腰を下ろした。そして、少し考えてこう口にする。
「無い…とは言いきれませんが。けれど口に出すべきことではないです」
「辞めようとは?」
「辞める?…まさか、そんな」
そう返したものの、実際はそれも先ほどと同じ回答だった。
辞めようと考えたことが無いわけではない。でもそれは多忙から逃げようということではなく、もっと大きな理由からである。
部外者として見る姿と、実際の姿が違うこと…そういった事は決して少なくない。
未来が期待できるからと入った場所が、実際にはその希望と正反対のことをしていても、それは珍しいことではないのだ。
しかしそれは、今のルーファウスに説明できるものではない。
「神羅はそんなに良いものか?」
ツォンがそう返したことで、ルーファウスは少し訝しそうな顔でそう聞いた。
「どうでしょう、それは春になれば自ずと分かるものですよ」
「…何だか全部、曖昧な答えばかりだ」
ちゃんと答えないなんて、とぶつぶつ文句を言いながらも、ルーファウスは腕などを組んでいる。それを見ながらツォンは、やはり苦く笑った。
答えたくても、答えられない。
それが本心だったから。
もし此処で本心を言えば、それは今回の付き添いの意味を失ってしまう。といって完璧に本心を隠すことを、同情心は阻む。だから、この状況はツォンにとって少し辛いものだった。
暫くして腕を解いたルーファウスは、気持ちを切り替えたように息をつくと、午後の予定についての話をし始める。
どうせこの話は堂々巡りでしかないのだから、いつまで話していてもキリがないのだ。
しかし、数分後にはきっとまた同じ会話をするのだろうと、ツォンは思っていた。
午後、湖畔に出向いた。
何ということもなく、ただただ静か。その静寂の中で、周囲に広がる景色を見つめながら風を感じている。
滅多に人が寄り付かないというその湖は、綺麗というよりどこか淀んでいたが、それを帳消しにできるくらいに心を鎮める効果がある。
それは静けさでもあり、そしてあまりにも緑豊かなことでもあった。
水面を見つめたルーファウスが「水深はどのくらいだろう」と言ったのに、ツォンは「かなり深いそうです」とだけ答える。
「こんな水面下にも何か棲んでるんだろうな」
水はいかにも濁っているけれど。
「そうですね」
「濁った水の中でも生きられるもんなんだな」
何となくその言葉に反応して、ツォンは静かに言葉を漏らした。
「…生き物はそんなに軟では無いのでしょう」
そのツォンの言葉を口に出して繰り返したルーファウスは、先ほどの部屋での会話をぶり返す。
「ツォン、本当に辞めたいと思ったことがないのか?」
突然その話を振られ、ツォンは驚いたように目を開いた。
まさか、先ほどそれなりに躱したはずだった内容を、また振られるとは思ってもみなかった。
ルーファウスの愚痴ならまだしも、こうも質問されると困ってしまう。
仕方無い、そう思って苦い笑いを見せると、
「…ありますよ」
と、ツォンは本心を告げた。
それを聞いて、どういうわけかルーファウスは怒ったような顔つきになる。
先ほど、嘘といえないまでも本心とは別のことを言った…それを怒っているとは思えないが、それでもその顔は本気そのものだった。
しかも、こんなことを言う始末である。
「あるなら。何で辞めないんだ」
「何で、といっても……」
理由ならいくらでもある。辞めたいと思った契機が一つであろうが、それを決断できない理由は様々だった。
生活するため、ある程度の地位に就いたため…理由はいくらでもある。
が、それをルーファウスに言ったところで、彼にその全てが把握できるのかどうかは分からない。
ルーファウスには基本的に生活的な苦しさは無いし、地位についても申し分ないものが用意されているのだから。
羨望とか劣等感があるわけではないが、事実は変えようがないのだから仕方無い。
「色々、理由はありますよ」
結局また曖昧な言葉で返答したツォンは、もうその会話を続けまいとして顔を背けた。が、ルーファウスはそうはさせてくれなかった。
食い下がるように、こんなことを言い始める。
「ツォンは勇気がないだけじゃないか!そんなのは理屈だ。辞めたいなら、辞めればいい。何でそうやって、仕方無いとか思うんだ」
「ルーファウス様…」
ルーファウスにそんなことを言われるとは思ってもみなくて、ツォンはただ苦笑した。けれどルーファウスがそういう事を言える理由はよく分かっている。
それが言える「次元」にいるのだ。
身分的にも、時期的にも。
一瞬、その違いについて説明でもしようかと思ったが、それほど大人気ないこともないか、と思い、ツォンは思いとどまる。
きっと一時の不安感がそういう言葉を吐かせるのだ。
そうに決まっている。
そんなふうに解決させて、もうそれは良いではないですか、と宥めの言葉を送ってみる。しかしそれも気に食わなかったらしいルーファウスは、
「お前がそういう事を言うな!」
と怒鳴るように言葉を投げつけた。
それは何だか突拍子もない言葉だったが、ルーファウスにとっては大事なことだった。
意味を図りかねたツォンが明らかに不審そうな顔をすると、ルーファウスはもう一度同じ言葉を繰り返す。
「お前がそういう事を言うな!」
“お前が”とは―――――…一体、どういう意味なのか?
そう思ったがそれを追求せずにいると、ルーファウスはふいと違う方向に顔を背け、もう良い、と言った。
「お前はこの湖の底でだって生きられるんだな」
そんなふうに零したルーファウスの横顔は、どこか寂しげに見えた。
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