29:マスターの情報
「いらっしゃい、今日は何にするかい?」
人の良さそうな声にそう問われ、ツォンは躊躇いながらも適当なカクテルの名を口にした。
今日はさすがにstolen heartはやめようと、どちらかといえばメジャーなカクテルにしてみると、マスターは何を思ったのだかニコリと笑ったりする。
その日、CLUB ROSEにはマリアの姿は無かった。
数日前、マリアからある一本の電話を受けたツォンは、その内容がショッキングなものであった為に元々予定していた用件を蹴ってまでマリアの元に出向いたものである。
そしてその場でマリアから事情を聞いたのだが、それはどうにも曖昧な情報だった。
信じていないわけではないし、むしろそれは信憑性があると思っているが、なにぶん情報の出所がしっくりこない。
マリアはその情報の出所は知り合いだと述べていたが、その知り合いとやらがどういうものなのか問い詰めると途端に口を閉ざしてしまったのだ。
だから今日は、それを聞こうと思っていた。
しかし、生憎とマリアは欠勤しているという。
「すまないね、今日はマリアが無断欠勤してるんだ。こんなことは初めてで俺もどうなってるんだか分からないんだよ。電話にも出ないし」
「そうか…」
カクテルを出すと同時にそんなことを口にしてきたマスターに、ツォンはアルコールの礼を述べながら一つ頷く。
マリアがいないと知ってツォンも何度か電話をかけてみたが、確かにその電話は繋がらなかった。というよりも、呼び出し音だけが響き出る気配が無いのである。
無断欠勤だというからわざと無視しているか、若しくは何か事情があるのだろう。
それにしても、情報源であるマリアが此処にいないというのはどうにも悶々とする状況である。
「その様子じゃ、ツォンさんも連絡が取れずじまいかな?」
「ああ」
いかにも深刻そうに頷いたツォンを見て、マスターは何を思ったのだか「倦怠期かな?」などと口にした。だものだからツォンは思わずマスターに不審な顔を向けてしまったものである。
いつもならジョークと受け取って苦笑いする程度で済んだのだろうが、今日はどうにもそういうわけにいかない。余裕が無いらしい。
しかしそんなツォンの顔を見ても尚、マスターは気を悪くしたりはしなかった。それどころか朗らかに笑って、
「まあ、あのマリアが此処まで惚れてるんだから微笑ましいことだよ」
などと口にする。
勿論、ツォンにはそれに返す言葉が無かった。
が、マスターはツォンの気持ちに反してマリアの話をし続ける。
「あの子は初めて此処に来た時からずっとトップを走り続けててね、まあ知ってるかもしれないけども。指名をくれるお得意さんが沢山いるのに、あの子はいっつもどこかで満たされないふうだったんだよ。時には、生きていたって仕方が無いとすら言うほどでね」
「……」
確かに――――マリアはそれを訴え続けていた。
それはツォンも知るところである。
「コンプレックスなのかなあ、この仕事は天職じゃないかと言ったら酷く嫌そうな顔をしていたよ。確かに堅気とは言えないけども、そんなに悪かないと思うんだけどもね。こういう場所は、人が心を曝け出すだろう?そういうのを受け止めるのはなかなか出来ないことさ。まあ、あの子は母親も同じ仕事をしていたから」
「母親?」
ふとその言葉に反応したツォンは、ずっとテーブルにおろしていた視線をふっとマスターへと向けた。するとマスターは人懐こい笑顔を見せながら、そうだよ、と肯定する。
マリアの母親は、やはりこうして酒場で働いていた。
同じように、誰かの心の訴えを聞きながら生きてきた。そして、時には自分が溺れながら。
「遺伝だなんて言われるのは真っ平なんだろうね、きっと。あの子の家庭は複雑だったそうだから」
「家庭か…そういえば聞いたことが無かった」
「そうかい?」
マスターは他から入ったオーダーのカクテルを手際良く作ると、カウンターから出てそれを運んで行った。
それからまたカウンターまで戻ってくると、今度はツォンの隣に腰を下ろし、まるで客であるかのように寛ぎ始める。
マスターは、ツォンを見やりながらゆっくりと言葉を放つ。
「あの子…堅気に戻してやっておくれよ」
ツォンさんはあの神羅の人間なんだろう、きちんとしてるし信用も置ける、マリアも随分と惚れているようだし、男として一つ頼まれてはくれないかな。
マスターはそんなふうに言うと、上半身を伸ばしてカウンターの向こう側にあるボトルを手に取り、同じく手を伸ばしたグラスになみなみとそれを注いだ。
度数の強いそのアルコールをぐびぐびと咽喉に流していくマスターを見やりながらツォンが思ったことは、きっとこの人は心からマリアを心配しているのだろう、という事である。
今日の無断欠勤についても、こんなに朗らかな顔をしているものの、恐らくはとても心配なのだろう。
そうでなければ、客でしかありえないツォンにこのような言葉は吐かないはずである。まるで親か何かであるようなこんな言葉は。
確かに――――気持ちは分かる。
薬に頼るような彼女を見ていられないのはツォンも同じことだし、どんな事情があったにせよ、実際彼女をそこから一度でも救い出してしまったのは嘘ではない。
でも、だからといってマスターの言葉に直ぐ頷くようなことはツォンには出来なかった。
そもそも、マスターの言う“きちんとしている”も、“信用が置ける”も、ツォンからしてみればあまりにも忌々しい言葉である。
神羅の社員であることは確かだが、かといってツォンには、自身がそのような評価をされる人間とは思えなかった。
間違った選択をしすぎた自分が、きちんとなどしているものかと思う。
信用などまるで置けない、自分のような人間は。
そうでありたいとは願うが、それが出来るほど心の中は純白ではない。
だから―――――あの時も…。
「…私は、それほど良い人間じゃない」
困った顔をしてそう言ったツォンは、神羅は確かに大企業だがそこに属する自分が真っ当な人間とは限らない、と続けた。
組織は、大きければ大きいほど個人の存在が曖昧になる。ブランドだけが一人歩きして実力が伴わないことも少なくない。
尤もツォンの場合はタークス主任という立場にあり、それは少なからず大役ではあったが。
「良い人間かどうかを決めるのは他の誰かさ、自分じゃなくて。この星に複数の人間が存在している限りはね。評価ってのはいつだって他人が決めるものさ、俺が俺の作るカクテルを美味いと言ったって誰かは不味いと言うだろうしね。逆に、不味いと思ったものを美味いという奴さんもいる」
「しかし私は本当に…」
本当に、そんなふうに言われる人間ではないのに。
そう思って反論めいた言葉を口にしたものの、それはマスターの言葉にかき消されてしまった。
「そりゃあ確固たる自分を知ってるのは自分だけかもしれない。けど、評価は十人十色になってしまうものだよ。誰かの評価が大切だっていうんじゃないよ、ただ、誰かの評価に左右されて生きていかなくちゃいけないからそれを知っておくことが必要だっていうだけさ。その評価を武器にするにしても敵に回すとしてもね」
オリジナルカクテルが美味いと評判の、“隠れた”名店CLUB ROSEのマスターはそう言う。
マスターのその言葉は何かを訴えかけているようで、ツォンは思わず口を噤んでしまったものである。
マリアを頼むと言い、十人十色の評価を口にするこの人は、本当は何を訴えたいのだろうか。
言葉には表れない何かがそこに潜んでいるような気がして、そしてそれが何なのかが分からなくて、酷く難しい。
まるで世間話のように思えるそれが、妙に―――――何故だか妙に、ツォンを過去に返らせた。それは数々の誤った選択をした、過去。
「――――マリアには…ツォンさん以外にも親しそうな男がいるんだけど、知っているかい?」
「?」
ふと投げかけられたその言葉に、ツォンは首を傾げる。
するとマスターは、そうだよな、と数度頷きながら、少し渋い顔をした。
「その男はどうも昔からの知り合いのようなんだ。どういう関係なのかは知らないけどもね。ただどうも…その男はマリアにとって良くない気がするんだよ。いつもマリアが嫌そうな顔をしているんだ」
「嫌そうな…?」
突然振られたその話は、ツォンには良く分からない。しかし何となく思い浮かんだのが、先日マリアが漏らした情報源…「知り合い」という存在だった。
マリアがツォンに告げた情報によれば、何者かがルーファウスの命を狙っているらしい。その何者かは悪さばかりしている連中で、マリアの知り合いなのだと言う。
尤もその情報は曖昧だったからどこまで信じて良いか分からないし、具体的に何が起こるかもわからないので対処のしようがない
せめてその連中がどういうメンツなのかを教えてくれれば捜査のしようもあるが、マリアはそれを口にしなかったのだ。
まさか――――それに関係ある人間なのだろうか。
「その上、また妙なのが現れたんだよ」
「また?というのは?」
「どこかの組織の人間っぽい男でね、マリアというのはどの女だと聞かれたんだよ。まあそれは今日の開店直後の話だから、丁度マリアもいなくて問題なかったんだけどね。…確か赤い髪のひょろっとした男だったかな。そうそう、丁度ツォンさんと同じようなスーツを着た…――――」
「な…っ」
“赤い髪のひょろっとした”?
“同じようなスーツを着た”?
それは―――――まさか。