36:嗚咽のなかで
優しくて、頭が良くて、エリートの兄。
時折妙に見下されているような気がして怖いこともあったけれど、そんな兄が好きだった。
“お前、兄貴の事好きだったじゃん。エリートのあの兄貴の事”
―――――そう、確かに好きだった。
“そういう奴といれば自分まで思わずエリート気分が味わえるってのは分かるぜ”
―――――そう、それもそうだったのかもしれない。
“なんせ俺たちはロクデナシだし”
―――――そう、自分では到底叶えられない夢を、その人になら見ることが出来た。
“結局お前も母親と同じ血の女ってわけね”
―――――ああ…あの母親と同じ血が…この身体の中には流れている。
あの母親は…、
無骨で不器用な男との間に出来た自分のような子供より、籍も入れようとしないエリート男の息子を可愛がった。
確実に繋がっているはずの自分と、確実に繋がっていないエリートの兄。
本物の血を分け合った自分は、何故か愛されもしない。
破天荒で嫌われ者だった次男が外の世界のことを色々教えてくれたとき、とても楽しかった。しかしそれは、マリアにとって破滅に向かう道に過ぎなかったのだ。
ただ、破滅に続いていると分かっていても自分を保つために有効であることは分かっていた。確かに彼のいうとおり、それは生きる術だったのである。
CLUB ROSEで一番人気を誇るようになってから、色んな客がマリアに熱を上げたものである。その中には、勿論兄と同じようなエリートの姿もあった。
そういうエリートが、自分の手にころりと堕ちてしまう姿を見るのは、ある意味では快感だったものである。
酒とセックスという武器が無ければ、恐らく一生相手になどされないだろうエリート男達。
そんな男達が、次々と自分に入れあげていく。
ああ―――――何て馬鹿らしい。
無駄にエリート志向を貫いているあの家では、自分は愛されなどしなかった。
見るからにスマートなタイプの人間だったあの兄の存在に、自分は太刀打ちできなかった。
ところが今はどうだろうか?
エリート達は馬鹿らしいほど自分に愛を囁いてくる。
己の価値は、明らかにエリート達に勝っている。
それを知ったとき、マリアは思ったのだ。エリートであることばかりが重宝され、自分などは邪魔者扱いだったあの家庭のことを思い出し、マリアは思ったのである。
母親はエリートの父親に縋り付いていただけだったけれど、私は違う、と。
私はそのエリート達に入れあげられるほどの価値を持っているのだし、エリートだけが取り柄の彼らに勝っているのだと。
しかし心密かにそう思う一方で、次男の持ち出してきた薬を止めることは出来なかった。
それは、優越と表裏一体の劣等が常に彼女を取り巻いていたからである。
過度の優越感を覚えるということは即ち、過度の劣等感を覚えているということだ。
火の無いところに煙は立たないように、表裏一体であるものはどちらか一方が存在しないのであればどちらも存在しないのである。
本当は―――――振り向いて欲しかった。
あんなエリートの男たちにではなく、自分のことを見て欲しかった。
けれども自分は彼らには勝ることができなくて、だからエリート達を跪かせることで彼らに勝っていたのだと思いたかった。そうすれば、母親の愛を受けられるような気がしていたから。
でも。
どれほど自分に入れあげたエリート達でも、やがては去っていってしまう。夜が明ければ、セックスが終われば、どこかへと帰ってしまう。
彼らには帰る場所がある。
あれほど愛を囁き、去り際でさえ名残惜しそうにするというのに、それでも結果は変わらないのだ。
その事実が、マリアを薬へと誘っていく。
結局誰も愛してなどくれないのだ。
母親も、父親も、兄も、エリート達も、誰もかも。
このまま薬を飲み続けて頭がおかしくなったって、誰も気にも留めない。
せいぜいマリアという名前の女がいたとしか思わないのだろう。
でも、“マリア”とは誰なのだろう?
そんな名前の人は知らない、だって本当の名前は別にある。
自分の本当の名前は何だったろうか、生まれたときに授かった名前は?
店にくるエリート達は自分をマリアと呼んだ、本当の名前ではなくマリアと。
店にくるエリート達は自分の仮初の姿を愛しただけで、本当は何も与えてくれなかった。
自分は誰?
自分は何者?
自分は“マリア”なんかじゃない。そんな人間じゃない。
本当の自分はどこへ行ってしまったのだろうか。
でもそんなものは思い出したくも無い、どうせ何をしたって愛されもしない。
孤独で、無意味で、空しいだけ。
マリアでもなく、本当の自分でもなく、何でもないものになってしまえたらどんなに楽だろうか。一瞬でもそうなれるとすれば、それは薬を飲んだその時だけである。
だから、薬―――――それが手放せなかったのだ。
けれど本当の自分がいつでも苦しそうにSOSを出してくる、助けて!、と。
誰か、誰か、誰か―――――誰か、助けて…!
ガチャ。
ふと耳に入り込んだ音にマリアはハッとし、その方向に目を向けた。
暗いままの部屋で床で蹲るようにしていたマリアは、いかにも妙な感じがする。
きっと誰かが見たら気が狂れたのだろうと思うに違いないだろうが、それでもマリアはその体勢を崩さなかった。
そうして、やがて足音が響いてくる。
カツ、カツ、カツ…
その足音を耳にしながらその方向へ目を凝らしていたマリアは、やがてその足音の主がツォンだということを知った。
「マリア…?どうしたんだ、一体何があった?」
驚いたような顔をしてそう口にしたツォンは、蹲るマリアの元にかけつけ、そっとその背に手を置く。そしてさするようにすると、気分が悪いのか、と心配そうな声音で問うた。
「何でも無い…何でもないの、気に…しないで」
笑ってそう言ったつもりだったが、ちゃんと笑えていたかどうかは分からない。
しかし恐らくそれが失敗だったのだろうと分かったのは、そう告げた後のツォンの顔が険しかったからである。
「まさか…あの薬を飲んだのか」
「違う、違うの。飲んでない。あの薬は、捨てたの」
マリアはそう言うと、部屋の隅にあるダッシュボックスを指差した。
その指の動きに反応してツォンがダッシュボックスの中を覗くと、そこには粉々になった薬瓶と薬そのものが散乱していた。
「もう…飲まないって決めたんだ。このままじゃ…私駄目だから…。それに、もう飲めないよ…」
「マリア…?」
「私…もう…」
床の上で蹲っていたマリアは途切れ途切れの声を押し出すと、そのまま容赦ない嗚咽を漏らす。
薬を乱用してどこまでも堕ちていた頃も何度も涙が出たし、そうじゃなくとも涙は死ぬほど流してきた。がしかし、今日の涙はそのどれとも違っている。
寂しいとか空しいとか、そういうものじゃない。
悲しいと、本当にそう思ったのだ。
とめどなく流れる涙は床に水溜りを作り、徐々にその規模を広げていく。
「一体どうしたんだ、何かあったんだろう?教えてくれ、一体何があった?」
ただならぬ何かを感じ取ったツォンは、再度マリアの脇に身を寄せると、その背を手でさするようにしながら顔を覗き込む。
いつもであれば立ち寄らないマリアの自宅にこうしてやってきたことは、ツォンにとっては大事な用事があるからだった。
それは他でもなくルーファウスの身に危害を及ぼすであろう相手の情報を掴むためだったが、その情報を掴む為に頼りにしていたマリアがこの状態ではどうしようもない。
まさか、泣き崩れている彼女に向かって仕事の話をするわけにもいかないだろう。
しかし、ツォンとて時間はそれほどなかった。
ルーファウスが狙われているであろう例のパーティの開催はもうすぐだし、それより前にどうしても情報を手にいれておきたいという気持ちがある。
勿論それは必ず手に入るものとは限らないし、あったとしても僅かなことかもしれない。しかし、あるのであれば僅かなものでも漏らしたくはない。
そう考えていたツォンにとってこの状況はアクシデントでしかなかったが、しかしまずはマリアを宥めるのか優先事項だった。
ただし、その為には少なからず彼女から事情を聞かねばならない。
一体何故そこまで泣いているのか、何があったのか。
「泣いているだけでは分からない。頼む、マリア。教えてくれ、何があったのかを」
耳元でそう呟くと、マリアは嗚咽の中でツォンの顔をそっと見上げた。
その顔はぐしゃぐしゃだったが、今の彼女に体裁を繕う余裕などない。いや、そもそもそんなものを気にする必要性など今の彼女には無かった。
だって、そんなことよりも大きな悲しみを抱えている。
とてつもなく大きな――――――。
「ツォン…」
マリアは嗚咽の中でその名を口にすると、そのまま続けて謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい、ごめんなさい…ごめんなさい…」
「何故謝る?」
その謝罪の意味が分からなかったツォンは純粋に首を傾げる。
何かがなければ泣かないだろうが、今泣いているその理由とこの謝罪とのあいだにどんな糸があるのかが分からない。
しかし、ツォンが純粋な疑問を抱いていられるのも一瞬だった。
涙だらけの顔でマリアが零したその言葉は、ツォンの息の根を止めるほどのものだったのだから。
「ごめん…なさい…私、取り返しの付かない事を……。私、ね……」
聞こえてきた、その言葉。
それは―――――…。
「今…お腹に…子供が、いるの―――――」
自分を捨ててしまいたい。
自分ではない存在になってしまいたい。
消えて無くなってしまいたい。
そう思う自分は、生まれてなどこなければ良かったのだ。
膝を抱え続けていればよかったのだ、母親の腹の中で、ずっと。
永遠に目を閉じて。