数日後、出かけるからといってレノを連れ出した。
これも所謂仕事の一部で、ある意味では護衛ともいえたので、やはりレノは首を傾げていた。そういう場合も大体優先されるのはツォンだったからである。これに関しては、何かあるといけないから、主任だから、と適当な理由を付けられたからまだ良かったが、ツォンの方は多分レノを選んだ理由を理解していただろうと思う。
こうして、何かにつけタークスが絡むとツォンを避ける日々が続いていて、まともに話などしていなかった。顔も合わせていない。最初はそれこそ仕事の用事でといってツォンから出向いてくることも何度かあったものだが、今やそれすら無くなっていた。ツォンの方も分かっているのだろう、そういう態度を。
珍しくレノが運転する車の中で、ルーファウスは黙り続けていた。
頭を巡ることといえば言わずとも知れたことで、でも此処まで来たからには、それこそ“戻れない”のだろうと思う。そう仕向けたのは勿論自分だし、それは相手にも伝わっているのだから。
「暗いぞっと」
そうズバリ言われて、はっと我に返る。
「ああ、悪いな。色々考えちゃって…」
「色々?どういう?」
一番突っ込まれたくない部分を言われて、ルーファウスはレノを睨んだ。
「そういうところ、聞くなよ。悩んでるんだから」
「ふうん、悩んでる、か。じゃあそういう時は…」
そう言った途端、レノは急激に加速した。確かに車通りは少なかったが、それにしてもいきなりすぎる。
「おい、レノ!」
思わずそう叫んだが、隣でスピード狂よろしく楽しそうにしているレノを見ていたら、何だか思わず笑ってしまったルーファウスである。
こういう感覚は何だか良い。スカッとしないわけでもない。
「メーター振り切れるかなっと」
「あのな…高速じゃないんだから」
こんなふうに他愛無い会話をして、自然に笑える。とても簡単なことだと思うのに、そんな簡単なことがどうしてツォンとだけはできないのだろう。どうしてそれを望んではいけないのだろう。それを考えると少し不思議な気がする。
それとも、仕事だったらできるのだろうか。
そう考えたが、やはりそれも無理そうだな、と思いルーファウスは一人でそっと苦笑いをした。
何しろもう、それを試せるくらいの仲にさえ、“戻れない”のだから。
けれど、そんな事をルーファウスが考えていたとき、ふっと視界が大きく歪んだ。
瞬間。
キキーッ、と音が鳴り響く。
はっとする暇も無い内に、ルーファウスは意識を失った。
―――――――もし。
もし自分が死んだら……
ツォンは冷静に書類の処理をしたりするんだろうか。
これで、せいせいしたとでも思うんだろうか。
処理をしながら“迷惑だ”と思うんだろうか。
この気持ちは、どこかに行ってしまうんだろうか――――――。
悲しんでくれてもそれは、部下として?
ぼんやりと頭の中で考えていたのが、段々とはっきりとしてくる。
どうやらもうすぐ目が覚めるらしい。
目が開けられるというならば生きているのだろう。そもそも何でこんな事態になったのだろうかと考えれば…そうだ、レノの運転で……。
そっと目を開けると、眩いばかりの光が差し込んだ。けれどそれは外の明かりではなく、室内の電気であるらしい。窓が少し開いているのか、少しだけ肌寒い気もする。
ごそり、と身体を動かす。
ああ、やはりと思う。どうやらベットの上のようだ。シーツの摺れる音がして、それがやけに大きく聞こえる。やがてはっきり目を開けると、そこはどうやら神羅の医務のようだった。
「…大丈夫ですか…」
ふとそんな声と共に、誰かの顔が現れる。
さすがにもうぼんやりとはしていられないと思ったのは、その時だった。
だってそれは、ツォンだったから―――。
「ああ…」
そう答えながらも視線を逸らす。医務室にはツォンがいるだけでレノの姿はない。という事は、これはずっと恐れていた二人きりという状況なのだ。
何だか居心地が悪い。…気まずくて。
しかしそんなルーファウスの事を、ツォンの方はじっと見つめていた。
「…次回からお出かけの際は私にお申し付け下さい」
やがて放たれた言葉はそれである。しかしそれに対して肯定の言葉などかけられるはずも無い。
「…何でだ」
「今回はレノの不注意です。こんな事態がまた起こっては困りますから」
冷静にそう告げたツォンは、続けてこう言った。
「残念ながら、何かしら罰しなければならないでしょう」
その言葉にルーファウスは鋭く反応する。
罰だなんて…冗談じゃない。
確かに不注意ではあったのかもしれないが、それに繋がる行為を止めなかった非は自分にあるし、それに、レノに罰を与えるなんて嫌だったのだ。
「その必要はない。レノは悪くない」
「何を言っているんです。もし貴方の命に問題があったら、どうするんですか」
「別にお前には関係ない」
なるべく感情を抑えてそう言ったルーファウスに、ツォンは突然、酷く怒ったような顔を向けた。
「ご自分の命ですよ、軽く考えないで下さい」
ルーファウスもそんなツォンの言葉にイライラしたような顔をすると、少し睨むようにして声を荒げる。
「だから!そんなことお前には関係ないだろう!?大体お前が運転したからといって何だ」
イライラする。
イライラするから……だから。
「お前なんかといるよりレノといた方が気が楽だ!」
―――つい、そんな言葉が口をついた。
しまった、と思ったがもう遅い。急激に済まなそうな顔なんかを向けることもできずに、今までと同じようにキツイ表情を続ける。けれど、ちょっとした後悔が唇を噛ませた。
その言葉を受けたツォンは、怒ったような表情のまま黙っている。
何か言ってくれないと…とてもじゃないが、辛い。
暫くしてやっとツォンが口を開いたときには、緊張で張り詰めていたルーファウスの心はすっかり疲れきっていた。
「…とにかく。仕事はやはり私に回して下さい。お出かけの際も私に連絡して下さい」
そう言ってツォンはすっと立ち上がると、少し開いていた窓を静かに閉める。やっと肌寒さがなくなって空気が緩くなると、何故だかルーファウスの心は悔しさで蔓延した。
ツォンと二人の空間は辛い。それから逃げようとしても、もう仕事の全般はツォンを通せというのだ。
どうせ何が起こっても、仕事上の間柄としてしか感情を見せないくせに。
冷静にただ、処理するだけのくせに―――。
「何…でだ。私はお前といたって辛いだけだ。お前は拒否したじゃないか。私の身に何かあったとしても、お前はどうせ淡々と仕事をするだけじゃないか」
「……」
何故か溢れ出る言葉が、止められなかった。
ただ、心の中から滲んでくる悔しさが次々に口をつく。
「レノやルードみたいに仕事以外の話をさせてもくれないし、笑ってもくれないじゃないか。お前がどんなに有能でも…ちっとも嬉しくなんかない。どうせお前はいつだって…私がどうなったとしても、悲しみも、喜びさえしないんだ」
「……」
「どうせ何をしたって無駄なんだろう?迷惑なんだろう、お前は?」
「……」
怒った表情が緩み、それに少し切ないような表情が加わる。その何ともいえない顔を、ツォンはルーファウスに向けていた。
「…辛いんだ、私は。ツォンといて、ツォンと話すことが。お前が言ったように今が正しくても、それでも駄目なんだ。冷静そうにしてるお前を見るのが辛い。全部分かってるくせに、冷静そのもののお前を見ることが」
「……では」
暫く黙って聞いていたツォンだったが、そこにきてやっと口を開いた。ゆっくりと開かれた口から流れた言葉は、ルーファウスの耳にしっかりと届く。
「では、私がもし……全ての言動に対して一喜一憂していれば、それで貴方は満足だったのですか?」
「…そんなこと言ってるんじゃない」
「いいえ。貴方とて私の本心など知らないではありませんか。私が今回の報告を受けたとき、どれほど後悔したかわかりますか。それを貴方は計れるのですか?」
真剣な眼差しと共にそう言われ、ルーファウスは言葉を失った。それはツォンの本心だったが、今まで絶対ありえないだろうと思っていたことだったから。
絶対に…少しも気など留めてくれないのだろうと思っていた。
ずっと。
「それでも私は貴方に進言できませんでした。…私が行きましょう、と言えなかった。貴方が私を避けていたのは分かっていましたから」
「別に…頼んでいないんだから、良いじゃないか」
苦し紛れにそう言ってみると、ツォンは少し声を強めて続けた。
「だからそれが後悔だと言っているんです。…私以外の誰かの不注意で!貴方に何かがあるなんて」
そこで言葉は一旦切れた。ルーファウスが何だろうと思ったのも一瞬の話で、次の瞬間にはまさかと思うような出来事が起きていた。
ぱさっとシーツが落ちていく。
それを視界の端で受け止めながら、大元の視線はどこにいけば良いのか分からないままさ迷っていた。
上から微かに感じる吐息が、自分の鼓動を早くさせる。何故そんなことをするのか、とそんな事を思うより、まず混乱していた。
あまりに突発的で。
あまりに予想外の出来事で。
「な…にするんだ…」
やっと出た言葉も途切れ途切れになってしまう。
子供か何かのようにしっかりと抱きすくめられて、動けない。でもそれは力のせいじゃない、何かもっと違うものが原因だった。ずっと求めていたものを、突然感じて、そうして戸惑いながらも離れたくないような―――そんな、微妙な感覚。
やがて上から降り注いだ声が、今まで感じたことがないほど優しいと思ったのは、気のせいだったろうか。
「貴方にもしもの事があったら……どうして良いか、分かりません」
そんなのは嘘だ、そう言いたかったが、声が出なかった。
「そんな事があるくらいなら、私がお守りしたいです」
「…な…」
何を言ってるんだ―――いきなり。
あれだけ冷徹な態度で迷惑とまで言ったのに、それを今更そんなふうに言うなんて、それこそ悔しくて仕方無い。もし最初からその言葉が聞こえたならば、こんなふうに辛くなんてならなかったのに。
でも、それでも、本心は嬉しくて。
戸惑いながらも、その言葉はとても柔らかく響いていて。
しかし、その言葉の裏にある気持ちが果たして自分と同じ種のものなのか、ルーファウスにはいまいち分からなかった。もしものことがあったら、なんて、やはり部下としての言葉かもしれないのだ。
「…好きでもない相手に、こんな事すべきじゃないだろ…」
何とか心を落ち着かせてルーファウスがそう言うと、それでも腕の力は弱めずにツォンはこう返した。
「好き、であれば…良いのですか?」
「そ…うかな」
「……それなら」
肝心な言葉は結局出てくることはなかった。けれど、それでもその言葉は十分ルーファウスの気持ちを軽くさせる。今までずっと無駄だと思って押しやってきたもの全てが、色を取り戻したような、そんな気がしていた。
「―――私には、こうする権利があるようですね」
その一言の後に、ツォンは腕を少し緩めると、ルーファウスの顔を見遣った。何だか気恥ずかしい気もしたが、それでもそこにはルーファウスにとって大切なものがある。
それは、ずっと見たかったものだった。
「もう、戻れなくても構わない」
ルーファウスの耳にはそんな言葉が届き、そして、目には映っていた。
大切な人の笑顔が。
END