Seventh bridge -すてられたものがたり-
シャワーを浴び終えてバスルームから出てきたレノは、こざっぱりした調子で男に礼を言い暫定的な“家”へと帰っていった。
その途中、どこかで食糧調達をしようということになり、男に教えてもらった店へと出向く。その店というのは実に遠くにありほぼ隣町に近かった。詳しく言えば町の境に位置しており、この寂れた町で暮らしていくには食料調達さえ大変だということが分かる。
車もない状態だから約一時間も歩いて買い物を済ます。思えば、あの突っ込んだ車を持ってくれば良かったとルードは嘆息した。まああの状態であのトラックがちゃんと走るのかどうかは分からないが。
「おっと、これはナカナカの上玉だ。俺コレな。全部ルードの驕りだから遠慮ナシにいくか」
そんなふうに言いながらレノが手にとったのは、店の隅の方に置かれずっと売れ残っていたらしいボトルの酒だった。思えば、酒というものを随分と飲んでいない。特にレノなどは逃亡してからずっとそれを口にしていなかったのである。
ルードが了承してそれを購入した。
その他にも食事になりそうなものを幾つか購入したが、冷蔵庫もないのだからとにかく日持ちのするものを選ぶことが必要だった。レノは、ルードの驕りだからなんて言いながらも質素なものしか手にとらない。だから殆どはルードが選ぶことになった。
そうしてまた一時間かけて歩き、あの家に戻る。
電気も通っていないため、夕方以降は窓に寄り添うようにし、月明かりを頼りにしなければならなかった。
その中でとにかく食事を済ます。
食事が済んだら、その後二人は久々に飲み合った。
一体どれくらいぶりなのだろうか。
氷もないし、水は買ってきたものの割るつもりもなくて、ストレートでちびちびと口に運んでいく。久々のアルコールは二人の体の中に染み込んだ。以前二人で飲んだときには、それはあるバーのカウンターでのことで、その時分にはまさかこんなふうになるとは夢にも思わなかったものである。
見知らぬ寂れた土地で、電気も水もなく、月明かりの下で飲んでいる。
ただ一つ幸せがあるとしたらばそれは、目の前にいる人が同じ人だということだろう。
環境や何もかもが変わっても、その人だけは傍にいる。それは変わらない。それがいかに重要で大切なことであるかを、この日、二人は感じずにはいられなかった。
そんな時間の中、ルードが現状で一番の問題を切り出す。
「これからどうするか考えなければ駄目だな。できればお前は名前を変えた方が良い」
「名前を?気に入ってるんだけどな、案外。レノって名前もさ」
「警察機構がなくなった後でも、もしもということがある。一番ネックなのは面白半分な市民だ。騒ぎ立てる奴も出てくるかもしれない」
「だよな」
市民にとっては、それは未だに凶悪な犯罪者という括りになっている。真実を明らかにできない現状では、その事実を覆すことはできない。
窓の向こうには空が広がり、その中央にぽっかりと月が浮かんでいる。
そしてその月の下には、謎の工場がキッチリと並んでいた。
「レノ、現実的な話をしよう」
「うん?」
「俺の金は引き出せる。だから生活の負担は俺がする。世間のほとぼりが冷めるまでお前は身を隠していた方が良いだろう。その間に俺はどこかで仕事を見つける。多分今ならもう家に帰っても大丈夫だ…だから引越しの手配もできると思う」
「オイオイ…何だよソレ」
まさか、というふうに笑ってそう言うレノに、ルードはごくごく真面目な表情で続ける。そんなルードの本気に、レノも同じように本気で返さざるを得なくなってしまった。
「復讐が終わったんなら、お前も俺も新しい生き方を考えなければならないだろう。もう元の職は無いんだ。何もかも一からやり直すしかない」
「それは分かるけど、俺は昨日まで逃亡者そのものだったんだぜ?まあ今もそうだけど。それが今日になったら突然、はい新生活準備、ってわけにはいかないだろ。いろいろ清算しなきゃいけないモンがあるだろうが」
「清算?一体何を清算するんだ。―――お前はどこまで犯罪者になるつもりだ?」
「犯罪者って…」
意外な言葉を言われたように、レノはそこで口をつぐむ。
レノは別段犯罪者になりたいわけではなかった。まあそれは当然だろう。
しかし問題は、一度加担した世間で言うところの犯罪…いや、彼らのいうところの信念を、どこまで保つかということだった。勿論これ以上の問題は実際にはレノとは関係がない。関係はないが、今のままではあまりにも中途半端であることは間違いなかった。
同じ黒い粒を渡された彼らは、確実に復讐を果たし、死んだのである。
そんな彼らに対し、明日からぬくぬくと生きていく…果たしてそんなことができるだろうか?何しろそうして生きていく世の中は、“彼らを排除しようとした世の中”に違いないのだ。まるで寝返るかのような気分になる。
「お前がそう思うなら別にそれで良いけど。俺はアイツラを裏切るのは嫌なんだよ。俺を犯罪者だと思うならそれでも良い。アイツラを貶めたトコで生きたいならお前だけでやってくれよ」
「レノ…。…何故だ、どうして分からないんだ」
「うざったい世界に帰ろうとしてるお前の事なんて分かるわけないだろ」
レノは少し荒っぽくそう言い捨てると、小さなグラスの中のアルコールをグイ、と飲み干した。そうして、一気に居心地の悪くなったその場所から立ち去ろうと、ガタッ、と椅子から立ち上がる。
しかしそれは、すぐにルードの腕に押さえられた。
「待て、それは違う!」
腕をギュッ、と掴まれたレノは、ルードを真正面から見据えながら「何がだよ」と反論する。しかしルードもレノに意見を譲る気はなく、更に言えばレノの意見を覆そうとさえ思っていた。
覚悟を決めるように一つ息を吐いたルードの口から、低く奥深い声が発せられる。
「確かに…今回お前がした事を考えれば、お前の意見は尤もだと思う。この先安穏と暮らすことは、お前やヤン達を批判し拒否した世の中に屈することと同じだ。でも、それ以外にどうやって生きる術がある?結局俺もお前も、何かをして金を稼いで、食物を食べて、そうして暮らしていくしか生きる方法がない。俺たちは人間なんだ、そういう方法しかない。それをするためには、この世界に生きていかなくてはならないんだ。例えそれがどんなに不本意なことだとしても、それがどんなに屈辱的なことだとしても、この世が腐っていてもだ」
「……」
「レノ、俺達がどんなに望んでも――――――過去は返ってこない。今ここにあるのは、俺たちが生きているのは、“今”でしかないんだ。幸せだった“過去”じゃない。返りたくても…もうそこにはいけないんだ」
その一言は、とても強くレノの心の芯に突き刺さった。
全ての気持ちを要約したかのようなその言葉を口にできたのは、ルードがそれだけレノを理解していたからだろう。そしてそれは、100%一致することはないとはいえ、ほぼ同じ気持ちを抱えていたからこそ理解できたものに違いない。
これだけ理解している。
理解しているからこそ、それに反論しなければならない。
何故なら、分かってしまっているからだ。ほぼ同じ気持ちである中では、その信念の先にあるのがどういう行動であるかは歴然であり、しかしその行動はルードにとって耐え難いものでもあったのである。
「この先…お前が普通の暮らしを選んでも、誰もお前を恨むなんてことは無い。お前にとって重要だった今回の件が、意味のないものになるなんてことも無い。目に見えない責任に駆られる必要なんて、何もないんだ」
「…別に?俺は責任なんて感じてないし。俺はただ、俺の信念に従って生きるんだ。その為には、そんな暮らしなんて出来ない」
腕を振り払おうとするレノに、ルードの腕がしつこく絡まった。
レノはそれを、怪訝そうな顔で見ている。
しかしその怪訝そうな顔も、ルードの一言の前に崩れ去った。
「じゃあ―――――――お前の信念とは一体どういうものなんだ?」
驚いたように軽く目を開いたレノに、ルードは遠慮もなく言葉を放つ。目の前の相棒には今までも本音を語ってきたものだが、恐らくその日は今迄で一番強く言葉を放った日だったろう。もしも人生が続くのならば、その日は記念日になってもおかしくないくらいだった。そのくらいの気迫が、その場のルードの言葉には込められていたのである。
「俺は…お前の捜索をしている間に嫌というほど思い知った。冷たい奴、軽薄な奴、狡猾な奴、面白半分の奴…この世界には汚い奴らが死ぬほどいる。反吐が出ると思った。そんな奴らがお前のことを罵って馬鹿にして…俺はそれが許せなかった。お前のことを何一つ知らない奴らにお前のことを語ってほしくなんてなかった。その上蓋を開けてみれば腐った権威が猛威を振るって罪のない人たちを貶めてた。俺にだって、この世界を擁護する気は毛頭ない」
「だったら何でだよ。そう思うんなら、コッチが折れる必要なんてない。お前はそういうコト言いながら、結局はあの医療制度のある世界を選ぶんだろ?なあ!」
「違う!それが俺の信念だからだ」
「何だって…?」
レノは今度こそルードの手を振り払うと、長らく背を向けながらも振る返るような格好をしていたのを改め、しっかりとルードと向き合った。
「擁護の余地なんかどこにもないのに“仕方ないから妥協しよう”って?そこで安穏と生きてくのがお前の信念だって言うのかよ?」
レノはごく真面目にその言葉を発し、それがあまりにも理解できないというふうな表情をする。
対するルードは、そうだ、とハッキリ肯定したあとにこの言葉を付け加えた。
「俺は…タークスの時、仕事に誇りを持ってた。あの頃の俺たちは、お前が言ってたように、誰しもが一生懸命で真剣で真面目で…だからこそ誇りを持てたんだろう。確かにタークスを失ってからはそんなふうに思ったことはなかった。でも今回お前が事件を起こして、俺はようやくそれを思い出したんだ。昔俺が大切にしてた信念を、思い出した」
お前の信念は何だ?
ルードがもう一度それをレノに問う。
その問いに明瞭な答えを出せないままにいたレノは、結局最後に
「…さあ、な」
そう答えた。
それはまるで何も考えていないような回答だったが、しかし実際にはそういうわけではない。レノは本当にそれを言葉として説明することができなかったのである。
確実に存在している信念だが、しかしその正体が一体何なのか…いや、そもそもそれには明確な正体などないのかもしれないが、ともかくレノにはいまいちそれが分かっていなかった。
そんなレノの前で、ルードがぽつりと零す。
それはとても重要な言葉で。
「―――――――俺の信念は、大切な人を守ることだ」
その言葉を発した後、ルードは真っ直ぐにレノを見るとこう続ける。
「警察機構だった俺はお前を逮捕しなくちゃならなかった。それが“仕事”だった。でも俺は…お前を見つけたら一緒に逃げたいと思ってた。それでも良いと思ってたんだ」
「何…言ってんだよ」
「本当だ。タークスの頃の俺が信念を持てたのも、お前がいたからなのかもしれない。大切な人を守るためなら、そこにある行動には全て誇りを持てた」
それがあの頃の俺だ、と締めくくったルードは、レノからの誘いを面倒だと思ってときの自分についていかに驕っていたかを痛感したものである。
いつもそこにあるものだから失うことはないと思っていた。例え会わなくても、見えない絆はいつもそこにあるものだと自負していた。
がしかし、レノが問題を起こしたその時からそれらは脆く砕け散ったのである。レノのあの行為はある意味では、新たな仲間のために起こした行動というふうにも解釈できた。ひどく俗的に言えばそれは嫉妬の対象にもなりえるほどのものである。尤もルードはそのような気持ちは持たなかったが。
自分の信念を“大切な人を守ること”と口にしたルードが、何故これからの生活についてあのようなことを言ったのか。
その理由は最早歴然だった。
その理由は、ルードの目前で驚きの表情を下げて立っている。
「…お前は昔からそうだったから、こんなことを言っても否定するのかもしれないが…それでも今回は譲れないんだ。この世界には許せないことが沢山ある、本当は全部覆したいくらいだ。でも――――それよりも俺はお前との生活を守りたい」
今のような不安定なものではなくて、しっかりと安心できる方法で、守りたい。
それがルードの気持ちであり、過去から続く信念の出した答えだった。
その、考えてもみなかった内容を耳にして、レノは暫く声を出せずにいたものである。がしかし、それもようやくほとぼりが冷めると、悩み悩んだような息を吐き出して思った通りのことを実直に口に出した。
「そりゃ…さ。そう言ってもらえるのは嬉しいけど、俺は…俺の信念は多分、お前とは違うから」
「…ああ。分かってる」
「お前と俺がそれぞれの信念を貫いたら、こんなのいつまでも平行だろ。決着なんてつかないに決まってる」
「…ああ。分かってる」
「俺はさ…何かもう、自分でも自分が良く分からないんだ。すっごく不安だったり焦ってたり、だけど何もない空っぽみたいに感じたり…良くわかんなくて。お前みたいにコレって言えないけど、それでもそれは否定できないんだ。なかったことに出来ないんだ」
「…ああ。分かってる。―――だってそれがお前の信念なんだろう?」
ルードは目の前にいるレノをグイ、と引き寄せると、その体を難なく胸に収めた。
数時間前にしたキスと同じで、長らく付き合ってきたのに初めてそんなふうに体に触れ合ったものである。いや、もしかすると何かの折にこうしたことがあったかもしれないが、少なくともこんな告白じみた言葉の後ではなかった。この抱擁には大きな意味が伴っているのだ、易くはない意味が。
部屋はとても静かで、窓の外の月がぼんやりと二人を照らしている。
ルードの背中にゆっくりと手を回したレノはチラ、とその月を見やり、何故か妙に心が切なくなるのを感じた。それと同時に、かつてバーでこの相棒と飲んだときのことを思い出したものである。
あの時、ルードは面倒くさそうだった。
それでもバーにやってきてレノの話を聞き、そして“戻ってこい”とそう言った。それでもレノはそれを拒否し、結局直接的な言葉を口にしないままに事を進めていったのである。あの時、ルードを呼び出しておきながら本心を伝えることができなかった。今では思い出せないし、そもそも性格上そんなふうに言うことなどできなかったのだろうが、本当はきっと何か大切なことを伝えようとしていたのだろう。
それを伝えられなかったいつかの自分のことを思い出し、心から何かが滲み出した。まるで心の流す涙みたいに。
「…レノは昔から曲がったことが嫌いだったな。大多数がAだと言っても、自分がBと思えばBでしかない。ある意味では身勝手だ。でもそこが、お前の信念なんだろうな。自分らしいことが、お前の信念を支えてるんだろう…」
「分析家だな」
「…まあな。自分のことも分からないなんて言う相棒のために、知識はつけてきたつもりだ」
ルードがそんなふうに言うものだから、レノはその相棒が読書家でもあったことを思い出した。確かに彼はいつも答えを求めてそれらを熟読していたものである。
「じゃあ、俺は感謝すべきか?…なんて。だよな、しなきゃな、俺は」
レノはそんなふうに言うと、ルードの胸の中で俯いた。そうしてその状態で繰り出された言葉はとてもくぐもっていたが、なんとかルードの耳に届く。
その耳に届いたのは、ルードにとっては願ってもみないものだった。
「俺もさ、今回のことでちょっと実感したんだ。結局俺はさ、なんていうか…寂しかったり、辛かったり、どうしようもなくなったりって、そういう時に必ずお前を頼ってんだなって。連日飲みに誘ってさ、会わなくなったらメールしてさ、今度はお前の名前まで…」
「名前?」
「いや、何でもない。今のはナシ」
レノはそう言って最後の言葉を有耶無耶にすると、ルードの背中に回していた手でぽんぽん、とその背を叩く。まるで子供をあやすときのような仕草だが、実際には照れ隠しのための行為だった。
レノもさすがに口には出来なかったのだ、あの農村でルードの名前を名乗っていたことなど。それは別に何か利害があってというわけではなく、その名を呼ばれればそこにルードも一緒にいるような気分になるから、というだけの理由。
まさかそんなことを告白することはできない。
恥ずかしいし、それに――――――――この気持ちを肯定したら信念がブレる。
“ブレる”のだ。